1989年4月 労基法改悪に反対実効ある雇用平等法を

33年間の発言と退出 - 1989年4月 労基法改悪に反対実効ある雇用平等法を

1989年4月 労基法改悪に反対実効ある雇用平等法を

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33年間の発言と退出
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webmaster 2011-5-12 19:08

1989年4月
労基法改悪に反対実効ある雇用平等法を

(1989年刊「女たちの戦後史」)

1985年5月に成立した「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保を促進するための労働省関係法律の整備に関する法律」(いわゆる「均等法」と「労基法改悪」をセットした)に対する大阪の婦人労働者のたたかいは、法案提出以前からの労基法改悪のたくらみに反対するたたかいにはじまり、国会史上まれに見る女性たちのたたかいといわれた101、102国会闘争を項点に約8年間にわたって続けられた。この時期は労働戦線の右翼再編が進行し、全国の政治状況を先取りするといわれる大阪においても、労働運動の階級的潮流である統一労組懇と大阪地評など既存のローカルセンターとの違いが鮮明になった歴史的なたたかいが展開された時期であった。

【1】労基法改悪の軌跡と資本・財界の狙い

政府・自民党の「80年代戦略」はこの「労基法改悪」にも如実あらわれたといえる。そこでまず「均等法」とセットの「労基法改悪」の資本・財界の狙いを明らかにしなければならない。

運用による規制緩和から、法自体の改悪を求めた財界

労働基準法は1947年の制定以降一貫して「資本側の改悪要求」にさらされてきたといえる。公務員労働者からスト権を奪い、1948年には国家公務員法の改悪、1950年には地方公務員法の制定で国家公務員を労働法の大部分から適用除外、地方公務員も部分的に適用除外し労働基本法の適用において労働者の分断をおこなったのである。一方では施行規則の改悪で労働基準監督署への届け出義務をもなくし、労働者の権利取得情況を労働行政の監督外に押しやってしまうのである。そして、朝鮮戦争による「特需」をきっかけに「復活」した独占資本は、1951年には「労働基準法の改正に関する要望」(日経連)を政府に突き付け、1952年「時間外労働、深夜業の制限緩和」が強行された。まさに戦後第1次の反動攻勢期だったのである。

その後も1955年の日本生産性本部の発足、1969年の労働基準法研究会の設置、1970年東京商工会議所の「労働基準法に関する意見」、1970年代の相次ぐ「労基研報告」。さらには、事業所の増大とは逆行する労働基準監督官の削減、労働省通達による規制緩和など「運用による改悪」と労働基準法の全面改悪への準備が同時に着々と進められていくのである。

そして、戦後第2の反動攻勢期といわれた「戦後政治の総決算路線」の攻撃のなかで健保・年金の改悪、労働者派遣法の制定(職業安走法の改悪)等とともに、労基法が「均等法」とセットで改悪が強行されていくのである。

政府・財界の「労働法制改悪」の本音は1982年に出された関西経営者協会の「労働基準法の改正にかんする意見」に見事にあらわれていた。「意見書」は労働行政の規制緩和を求め、「労使自治」の強調などまさに労働戦線の右傾化を横に見ながら資本の意図を貫徹しょうとするものであった。

【2】労働戦線の右傾化と大阪地評婦人協議会の変遷

こうした政府・財界の攻撃に対し、「総評」が「労基法改悪反対」を掲げてたたかいをすすめたのは1978年の「労基研報告」に対するたたかいまでであったといえる。1970年代は自民党政治と独占資本がすすめてきた「高度経済成長政策」や日米安保条約に基づいた反動攻撃に対する労働者・国民との矛盾が激しくなり、政治革新のたたかいが前進し、大阪にも黒田革新府政が誕生した。婦人労働者のたたかいの分野においても1972年のはたらく婦人の大阪集会の統一などで総評大阪地評婦人協議会は婦人労働者運動のローカルセンターとしての一定の役割を果たしつつあった。

しかし、大阪総評や大阪同盟など右翼的潮流が、資本・財界と一体となった反共・差別・分断攻撃を集中させ、革新統一の破壊に狂奔した。このことは、婦人労働者のたたかいにもおおきく影響し、地評婦人協議会は1976年以降「ローカルセンター」としての積極的役割を放棄し、統一行動に徐々に背を向ける傾向を示しはじめた。この時期1975年とは、春闘連敗の幕開けの年でもあった。

【3】大阪統一労組懇婦人連絡会の発足と運動の展開

大阪統一労組懇婦人連絡会は、全国にさきがけて1976年8月、統一労組懇加盟労働組合を中心とした婦人労働者の交流の場として結成された(結成当時は婦人代表者会議)。大阪統一労組懇婦人連絡会の結成は、地評婦人協議会の「ローカルセンター機能の積極的役割放棄」のもとでまさしく大阪の婦人労働者の期待に応えるものとして歴史的第一歩をふみだしたのである。発足当初の運動は、1975年の育児休業法の制定をうけて官・民をとわず育児休暇要求のたたかいが新たな段階に入り(自治体職場では条例化の取り組み、民間職場での育児休暇要求の高まり、育児休業法の不充分な部分をどう改正させていくのか等)、75、76春闘が連敗し春闘敗北のドロ沼に入り込んでいくなかで、春闘段階での学習活動や宣伝活動、たたかいの交流などが活発に展開されていった。

 1978年11月労働基準法研究会報告(婦人労働者の労働基準のあり方)が出され、労働基準法の改悪の具体化が一層強化されてきた。1979年1月中央統一労組懇婦人連絡会が結成されたが、地方段階で婦人組織を結成しているのは大阪だけであった。80春闘において大阪統一労組懇婦人連絡会は「労基法改悪反対、真の男女平等法制定」の要求を掲げ、ワッペン2万枚、ステッカー1万枚を作成し、宣伝活動を重視した取りくみを展開し、あわせて「労基研報告に対する医学的反論」の冊子を作成し、学習活動も重視してきた。こうして6月には、民法協、労組、婦人団体の参加による「労基法改悪に反対し、真の男女平等法制定をめざす大阪連絡会」の結成へと運動は発展していった。そして、81年には大阪独自の「労働基準法改悪阻止、はたらく婦人の権利と地位の向上を要求する請願署名」の取り組みを展開し、5万名を集約した。

【4】実践のなかで労働戦線問題が見えて来た

労基法の改悪に反対するたたかいは、1983年以降まさに正念場をむかえた。1983年12月21日に公開された婦人少年問題審議会の中間報告では、総評をふくむ労働側委員が「男女平等をはかるため何らかの法律をつくる」として「妊娠・出産にかかる母性保護を除いてみなおす」ことに合意し、「女子保護規定の適用を受けた者と受けなかった者との問で、昇進・昇格にあたって取り扱いに差が生じる問題については、当面法律による一律規制の対象としない」との財界への屈服ぶりをみごとにみせつけたものとなり、労働者の大きな怒りをかった。こうした「労働側」の姿勢は、法案作成やその後のたたかいに大きな影響を与えた。1984年3月26日婦少審は「建議」をまとめ、4月19日労働省は「男女雇用平等法案要綱」を発表した。政策・制度要求は労働4団体共闘ですすめるとする総評は、全民労協、労働4団体の枠内のとりくみに終始した。

全民労協・労働4団体は1984年4月17日「合同対策合議」を設置し「雇用の全段階を禁止規定とする考え方を通すことは困難、現実的対応を取らざるを得ない」と労基法改悪を容認し、「均等法」とセットの労基法改悪の101国会成立を強く押し出した。そして、労働者の「男女雇用平等法案要綱」を「不満」として婦少審の審議を拒否したものの、わずか1週間とたたない4月25日には審議に応じた。

また、総評は83春闘で取り組んだ政府宛署名を、政府が法案を国会に上程し政府としての態度決定が終了した段階で提出し、5月26〜27日に予定していた総評・中立労連主催の「第29回はたらく婦人の中央集会」を6月1日の決起集会に切り替えたものの、総評の単独主催となり集会スローガンに労基法改悪反対は欠落していた。さらには、60人の特別婦人代議員を参加させた総評の臨時大会では、「労基法改悪反対を方針に掲げるべき」との発言に対し、真柄事務局長は「労基法に対して、これを反対あるいは是認という既存の概念なり、基準の枠組みのなかで雇用における男女平等を考えていこうとすると、運動の前途、実態にあわないものが出て来るのではないか」と答弁した。こうした婦人の要求とかけはなれた言動は、労働戦線の右翼再編が労働者に何をもたらすのかを婦人労働者のまえに明らかにした。

大阪においても、地評婦人協議会は、婦人労働者の切実な労基法改悪反対の声に耳をかたむけざるをえなかったものの、総評の全民労協路線容認に追随し、政府・財界と真正面から対決せず、労基法改悪反対の婦人労働者のたたかうエネルギーを結集できずに婦人労働者のたたかいに大きな障害をもたらしたといえる。

【5】正念場のたたかい

統一労組懇婦人連絡会は「労基法改悪反対、母性保護拡充」「実効ある雇用平等法制定」の2つの制度要求をかかげ婦人労働者の先頭にたってたたかいをすすめた。1984年は2月に東西で「春闘討論集会」を開催し、「正念場」のたたかいを各地域で旺盛に展開することを提起し、3月には「平等法闘争委員会」を中央に設置した。4月から7月まで6次にわたる全国統一行動をとりくみ、宣伝、署名、対政府交渉、国会傍聴、請願行動、自治体要請行動を展開した。

 そして、4月14日の中央決起集会は、(1)政府案が国会に上程前に全国規模での集会で政府に迫る、(2)既存のナショナルセンターがかかげない「労基法改悪反対・実効ある雇用平等法制定」の要求を明確にした集会で婦人労働者のたたかうエネルギーを結集する、(3)広範な労働者・団体に呼び掛けて幅広い集会とする、の3つの意義を明らかにし、婦人労働者独自の集会としては史上最大のとりくみともいえる大集合となった。

大阪ではこうした全国のたたかいに呼応して3月31日に婦人総決起集合、中央集会には500名の代表派遣の決定、ステッカー5万枚の作成、団体まわり、毎週の会議開催など精力的にとりくんだ。3・31集会は法案上程直後の行動となり、20単産(組)1300名の広範な婦人が参加し熱気ある集会となり、4月14日の中央集合にむけて大きな力を発揮する前段の集会となった。そして、中央集会には目標を上回る515名の上京団を派遣した。ひきつづく4月18日の「労基法改悪反対大阪連絡会」を中心とした集会実行委員会(統一労組懇も参加)主催の集会は、1100名の参加のうち半数が男性という画期的なものであった。

宣伝行動では2万枚のビラを作成して、6月9日に大阪城公園での宣伝カーによる街頭宣伝をはじめ、主要ターミナルでの駅頭宣伝をくりひろげた。6月26日衆議院本会議での主旨説明を皮切りに国会審議が開始されたが、毎回傍聴団を派遣して国会闘争を展開した。衆議院社会労働委員会ではたった4日間で審議はうちきられ、参議院に付託されたものの、「法案」はこうしたたたかいを反映して、8月4日に参議院本会議で継続審議となった。
大阪では101国会終了後ただちに行動を展開し、「101国会を上回る運動」をスローガンに職場・地域で参議院にむけた署名を開始し、国会招集前に101国会を上回る署名を集約した組織もでてきた。

102国会は「電電民営化法案」、年金改悪など反動諸法案目白押しのなかでたたかわれた。大阪統一労組懇婦人連絡会は、1月18日から「定時・定点の目に見える行動」を提起し各組織において毎週1回以上の行動が組織されていった。2月28日からは社会労働委員会の審議日(毎週木曜日)には毎回50名ちかい傍聴団を派遣し、「安易に審議にはいるな。『均等法案』を撤回せよ」と要請行動を展開していった。そして、「労基法改悪反対、実効ある男女雇用平等法制定を求める2・23中央決起集会」「労働基準法改悪、労働者派遣事業法制定など労働法制の全面改悪に反対する3・23大阪集合」を大きく成功させ、実質審議が始まった4月4日からは、毎週2回の社会労働委員会の審議日には毎回50名を越える傍聴団を派遣し、大阪の婦人労働者の総力を挙げてたたかった。

101国会では共産党を「排除」したものの、「対案」をだし政府との対決姿勢を見せた社・公・民・社民連は、102国会では「対案」どころか修正案もださず、共産党の全面修正案にも反対し、審議促進に手を貸すなかで、5月17日「均等法案」は成立した。

【6】大阪のたたかいの特徴

「均等法案」にたいするたたかいで、大阪では17万7108名の要求署名、18万7956名の請願署名の集約、労働婦人単独で1300名の集会、500名を越える中央集会への代表団派遣、週2回の国会傍聴などいずれの数字をとっても近来にない到達であった。署名は全国集約の4分の1を占めるに至り、まさに大阪の婦人労働者のたたかうエネルギーを結集した。

こうしたエネルギーを引き出すことができたのは、大阪における婦人労働者のたたかいの歴史の積み重ねであるとともに、組織された婦人労働者――労働組合婦人部がまず中心的にたたかったことにあるといえよう。そして、統一労組懇を中心に据えた共同闘争の発展が大きな力になった。大阪では全国に先がけて「労基法改悪反対大阪連絡会」を結成していたが、共同闘争と統一労組懇独自の運動の区別と関連を明確にし、この時期少なからずおこっていた「統一労組懇かくし」の運動に埋没せず、統一労組懇運動を目にみえるものとして、大阪の婦人労働者を大きく励ました。そして常に大阪の位置と役割を明確にした行動を提起した。

「均等法案」に対するたたかいは、「実効ある男女雇用平等法」という新たな法制度の要求と、労基法改悪という制度改悪反対を同時に取り組むという、過去に婦人労働者が経験したことのない運動であり、また、階級的潮流が全国闘争を組織するという面においても近年まれに見るたたかいであったといえよう。さらに大阪ではすべての行動を全国に先がけて展開したという特徴をも持っていた。それをなしえたのは学習と討論の力であったといえる。署名ひとつ作成するにも「要求署名」にしようか「請願署名」にするかから討議しなければならなかった。それなら「要求署名」と「請願署名」はどうちがうのか、「国会法」の学習からことははじまるというものであった。次は集めた署名の請願行動はどのようにするのか、「紹介議員」になってもらう議員訪問のため議員会館への入り方から訓練である。これまでのように動員にいって、「言われたとおり」行動するのとは、わけがちがうのだからみんな真剣だった。行動をいちはやくおこすために、指令まちでなく自ら学習し、皆で討論していくことを情勢がもとめたといえる。

こうしたたたかいは大阪の婦人労働者をきたえた。そして要求から出発するたたかいの発展のなかで、婦人労働者の切実な要求が労働戦線問題と深くかかわっていることを実践のなかで学んだのである。大阪の婦人労働者のたたかいは、今日まともな労働組合運動をめざす階級的ナショナルセンター、ローカルセンター確立の運動への大きな力となって職場、地域に根づいている。

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