統一労組懇運動における婦人労働者のたたかい 大阪統一労組懇20年史『いま新しくはじまる』より - 大阪の労働戦線と婦人労働運動 -

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【1】婦人代表者会議の結成

大阪の統一労組懇運動における婦人労働者の組織的運動は、全国にさきがけて一九七六年八月大阪国公婦人協の提起により統一労組懇加盟労組を中心とした婦人労働者の交流の場として「婦人代表者会議」として発足したのがそのはじまりである。

976年という年は婦人労働者にとっては1975年の国際婦人年をうけ「男女平等」の世論が大きく高まり、労働組合婦人部の活動にも大きな影響をあたえ、労働組合運動全体にとっても春闘が連敗し、まさに春闘連敗のドロ沼に入り込んでいった時期であり、労働組合運動の流れがおおきく変わっていく時期にあったといえる。

こうした状況は、統一労組懇運動の真価を発揮していく時期にあったともいえ、とりわけ大阪は黒田革新府政の第二期誕生をめぐっての大阪総評や同盟など右翼的潮流が資本と一体となり反共・差別・分断攻撃を集中させ革新統一の破壊を全国を先取りする形であらわれてきており、婦人運動の分野においても、  国際婦人デー大阪集会、保育要求集会の分裂がひきおこされました。こうした状況のなかで大阪地評婦人協議会は一九七六年以降「ローカルセンター」としての積極的役割を放棄し始めるもとで大阪の婦人労働者の期待に応える組織として婦人代表者会議は活動の第一歩を踏み出しました。統一労組懇の婦人組織として中央、地方を通じて大阪が逸速く婦人代表者会議を発足させたのは情勢が求めた必然でもあったわけです。

【2】全国にさきがけ大阪独自で切り開いた運動の展開から労働戦線の右傾化に抗して、全国統一行動に呼応しての運動の発展

  発足当初は中央には統一労組懇の婦人部組織はなく大阪的課題はもとより全国的課題においても大阪独自で運動を展開させなければなりませんでした。

七七・七八春闘では春闘講座を開催し統一労組懇加盟以外の民間労組をも数多く結集した画期的なとりくみとなりました。

一九七八年一一月労働基準法研究会報告(婦人労働者の労働基準のありかた)がだされ労働基準法の改悪の具体化が一層強化されてきた。一九七九年一月ようやく中央統一労組懇婦人連絡会が結成されたものの地方段階で婦人組織を結成しているのは大阪だけであった。


一九八〇年の社・公合意は労働戦線の右傾化に拍車をかけ総評は、「安保条約容認・賃金自粛路線」を突き進んでいきます。

 婦人労働者のたたかいの分野でも総評婦人局が日本母親大会から脱落し、「労基法改悪に反対しない」など婦人労働者の要求や願いに背をむけていきました。

 大阪においても限定された団体とはいえ統一して開催されていた「はたらく婦人の大阪集会」も八二年度を最後に開催されなくなりました。

八〇春闘において大阪統一労組懇婦人連絡会は「労基法改悪反対、真の男女平等法制定」の要求を掲げワッペン二万枚、ステッカー一万枚を作成し宣伝活動を重視した取り組を展開し、あわせて「労基研報告に対する医学的反論」の冊子を作成し学習活動も重視してきた。こうして六月には、民法協、労組、婦人団体の参加による「労基法改悪に反対し、真の男女平等法制定をめざす大阪連絡会」への結成と運動は発展していった。

そして、八一年には大阪独自の「労働基準法改悪阻止、はたらく婦人の権利と地位の向上を要求する請願署名」の取り組みを展開し五万名を集約した。

【3】労基法改悪反対、実効ある男女雇用平等法制定をめざすたたかいの発展と統一労組懇婦人連絡会運動の前進

 一九八五年五月に成立した「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保を促進するための労働省関係法律の整備に関する法律」(いわゆる.「均等法」とセットの「労基法改悪」)に対する大阪の婦人労働者のたたかいは、国会史上希に見る女性達のたたかいといわれた一〇一、一〇二国会闘争を頂点に約八年間にわたるたたかいであった。この時期は労働戦線の右翼再編が進行し全国の政治状況を先取りするといわれる大阪において労働運動の階級的潮流である統一労組懇婦人連絡会(当時代表者会議)と大阪地評など既存のローカルセンターとの違いが鮮明になった歴史的たたたたかいであった。

労基法改悪の軌跡と資本・財界の狙い

政府・自民党の「八〇年代戦略」はこの「労基法改悪」にも如実あらわれたといえる。そこでまず「均等法」とセットの「労基法改悪」の資本・財界の狙いを明らかにしなければならない。

運用による規制緩和から法自体の改悪を求めた財界

労働基準法は一九四七年の制定以降一貫して「資本側の改悪要求」にさらされてきたといえる。公務員労働者からスト権を奪い一九四八年には国家公務員法の改悪、一九五〇年には地方公務員法の制定で国家公務員を労基法の大部分から摘要除外、地方公務員も部分的に摘要除外し労働基本法の摘用において労働者の分段をおこなったのである。一方では施行規則の改悪で労働基準監督署への届け出義務をもなくし労働者の権利取得情況を労働行政の監督外に押しやってしまうのである。そして、朝鮮戦争による「特需」をきっかけに「復活」した独占資本は一九五一年には「労働基準法の改正に関する要望」(日経連)を政府に突き付け1952年「時間外労働、深夜業の制限緩和」が強行された。まさに戦後第一次の反動攻勢期だったのである。その後も一九五五年の日本生産性本部の発足、一九六九年の労働基準法研究会の設置、一九七〇年東京商工会議所の「労働基準法に関する意見」、一九七〇年代相次ぐ「労基研報告」さらには、事業所の増大とは逆行する労働基準監督官の削減、労働省通達による規制緩和など「運用による改悪」と労働基準法の全面改悪への準備が同時に着々と進められていくのである。

そして、戦後第二の反動攻勢期といわれた「戦後政治の総決算路線」の攻撃のなかで健保・年金の改悪、労働者派遣法の制定(職業安定法の改悪)等とともに労基法が「均等法」とセットで改悪が強行されていくのである。
政府・財界の「労働法制改悪」の本音は一九八二年にだされた関西経営者協会の「労働基準法の改正にかんする意見」に見事にあらわれていた。「意見書」は労働行政の規制緩和を求め、「労使自治」の強調などまさに労働戦線の右傾化を横に見ながら資本の意図を貫徹しようとするものであった。

実践のなかで労働戦線問題が見えて来た

労基法の改悪は一九八三年以降まさに正念場のたたかいをむかえた。一九八三年一二月二一日に公開された婦少審審議の中間報告は総評をふくむ労働側委員が「男女平等をはかるため何等かの法律をつくる」として「妊娠・出産にかかる母性保護を除いてみなおす」ことに合意し「女子保護規定の適用をうけたものとうけなかった者のとの間で、昇進・昇格にあたって取り扱いに差が生じる問題については、当面法律による一律規制の対象としない」との財界への屈服ぶりをみごとにみせつけたものとなり労働者のおおきな怒りをかった。こうした「労働側」の姿勢は、法案作成やその後のたたかいにおおきな影響を与えた。

一九八四年三月二六日婦少審は「建議」をまとめ四月一九日労働省は「男女雇用平等法案要綱」を発表した。政策・制度要求は労働四団体共闘ですすめるとする総評は全民労協、労働四団体の枠内のとりくみに終始した。
全民労協・労働四団体は一九八四年四月一七日「合同対策会議」を設置し「雇用の全段階を禁止規定とかる考え方を通すことは困難、現実的対応を取らざるを得ない」と労基法改悪を容認し「均等法」とセットの労基法改悪の一〇一国会成立を強く押し出した。そして、労働省の「男女雇用平等法案要綱」を「不満」として婦少審の審議を拒否をしたもののわずか一週間とたたない四月二五日には審議に応じた。

また、総評は八三春闘で取り組んだ政府宛署名を政府が法案を国会に上程し政府としての態度決定が終了した段階で要求署名を提出するにいたり、五月二六 - 二七日に予定していた総評・中立労連主催の「第二九回はたらく婦人の中央集会」を六月一日の決起集会に切り替えたものの総評の単独主催となり集会スローガンに労基法改悪は欠落していた。さらには、六〇人の特別婦人代議員を参加さした総評の臨時大会では、「労基法改悪反対を方針に掲げるべき」と発言に対し真柄事務局長は「労基法に対して、これを反対あるいは是認という既存の概念なり、基準の枠組みのなかで雇用における男女平等を考えていこうとすると運動の前途、実態にあわないものが出て来るのではないか」と答弁した。こうした婦人の要求とかけはられた言動は労働戦線の右翼再編が労働者に何をもたらすのかを婦人労働者のまえに明らかにしたといえる。

大阪においても、地評婦人協議会は、婦人労働者の切実な労基法改悪反対の声に耳をかたむけざをえなかったものの総評の全民労協路線容認に追随し政府・財界と真正面から対決せず労基法改悪反対の婦人労働者のたたかうエネルギーを結集できず婦人労働者のたたかいに大きな障害をもたらしたといえる。

このように政府・財界の八〇年代戦略に基づく軍拡・臨調路線、労働戦線の右傾化が進行するもとで労働者の権利剥奪に対し、既存のナショナルセンターが体制擁護の運動しか展開できなかったのである。

正念場のたたかい

統一労組懇婦人連絡会は「労基法改悪反対、母性保護拡充」「実効ある雇用平等制定」の二つの制度要求をかかげ婦人労働者の先頭にたってたたかいをすすめた。

一九八四年は二月の東西で「春闘討論集会」を開催し「正念場」のたたかいを各地域で旺盛に展開することを提起し、三月には「平等法闘争委員会」を中央に設置した。四月から七月まで六次にわたる全国統一行動をとりくみ、宣伝、署名、対政府交渉、国会傍聴、請願行動、自治体要請行動を展開した。

そして、四月一四日の中央決起集会を(1)政府案が国会に上程前に全国規模での集会で政府に迫る(2)既存のナショナルセンターがかかげない「労基法改悪反対・実効ある雇用平等制定」の要求を明確した集会で婦人労働者のたたかうエネルギーを結集する(3)広範な労働者・団体に呼び掛けて幅広い集会とする。の三つの意義を明らかにし婦人労働者独自の集会としては史上最大のとりくみともいえる大集会となった。

大阪ではこうした全国のたたかいに呼応して三月三一日に婦人総決起集会、中央集会には五〇〇名の代表派遣の決定、スッテッカー五万枚を作成、団体まわり、毎週の会議開催など精力的にとりくんだ。三・三一集会は法案上程直後の行動となり二〇単産(組)一三〇〇名の広範な婦人が参加し熱気ある集会となり、四月一四日の中央集会にむけて大きな力を発揮する前段の集会となった。そして、中央集会には目標を上回る五一五名の上京団を派遣した。ひきつづく四月一八日の「「労基法改悪反対大阪連絡会」を中心とした集会実行委員会(統一労組懇も参加)主催の集会には一一〇〇名の参加のうち半数が男性という画期的なものであった。

宣伝行動では、2万枚のビラを作成し六月九日大阪城公園で宣伝カーによる街頭宣伝をはじめ主要ターミナルでの駅頭宣伝をくりひろげた。六月二六日衆議院本会議での主旨説明を皮切りに国会審議が開始されたが毎回傍聴団を派遣し果敢な国会闘争を展開した。衆議院社会労働委員会ではたった四日間で審議はうちきられ参議院に付託されたものの、一〇一国会ではこうしたたたかいを反映し「法案」は八月四日に参議院本会議で継続審議となっ
た。

大阪では一〇一国会終了後ただちに行動を展開し「一〇一国会を上回る運動を」をスローガンに職場・地域で参議院にむけた署名を開始し、国会招集前に一〇一国会を上回る署名を集約した組織もでてきた。

一〇二国会は「電電民営化法案」年金改悪など反動諸法案目白押しのなかでたたかわれた。

大阪統一労組懇婦人連絡会は、一月一八日から「定時・定点の目に見える行動を」を提起し各組織において毎週一回以上の行動が組織されていった。二月二八日からは社会労働委員会の審議日(毎週木曜日)には毎回五〇名ちかい傍聴団を派遣し「安易に審議にはいるな、『均等法案』を撤回せよ」と要請行動を展開していった。そして、「労基法改悪反対、実効ある男女雇用平等法制定を求める二・二三中央決起集会」「労働基準法改悪、労働者派遣事業法制定など労働法制の全面改悪に反対する三・二三大阪集会」を大きく成功させ、実質審議が始まった四月四日からは毎週二回の社会労働委員会の審議日には毎回五〇名を越える傍聴団を派遣し、大阪の婦人労働者の総力を挙げてたたかった。

一〇一国会では共産党を「排除」したものの「対案」をだし政府との対決姿勢を見せた社・公・民・社民連は、一〇二国会では「対案」どころか修正案もださず、共産党の全面修正案にも反対し、審議促進に手を貸すなかで五月一七日「均等法案」は成立した。

【4】大阪のたかいの特徴

(1)すべての面で史上最高のとりくみ

「均等法案」にたいするたたかいで署名は一七七一〇八名の要求署名、一八七九五六名の請願署名の集約。労働婦人単独で一三〇〇名の集会。五〇〇名を越える中央集会への代表団派遣。週二回の国会傍聴などいずれの数字をとっても近来にない到達であり、署名は全国集約の四分の一を占めるに至ったのである。まさに大阪の婦人労働者のたたかうエネルギーを結集したといえる。

(2)全国の牽引力となった力

故こうしたエネルギーを引き出すことができたのか。大阪における婦人労働者のたたかいの歴史の積み重ねであるとともに、組織された婦人労働者 - 労働組合婦人部がまず中心的にたたかったことにある。そして、統一労組懇を中心に据えた共同の発展が大きな力になったといえる。大阪では全国に先駆けて「労基法改悪反対大阪連絡会」を結成していたが、共同闘争と統一労組懇独自の運動の区別と関連を明確にし、この時期少なからずおこっていた「統一労組懇かくし」の運動に埋没せず統一労組懇運動を目のみえるものとし大阪の婦人労働者をおおきく励ましたことも重要であった。さらに常に大阪の位置と役割を明確にした行動を提起したことである。

(3)学習と討論の重視

「均等法案」に対するたたかいは、新たな法制度の要求と制度改悪反対を同時に取り組むという過去に婦人労働者が経験したことのない運動であり、また、階級的潮流が全国闘争を組織するという面においても近年希に見るたたかいであったといえる。さらに大阪ではすべての行動を全国に先駆けて展開したという特徴をも持っていた。そのことを成しえたのは学習と討論の力であったといえる。署名ひとつ作成するにも「要求署名」にしようか「請願署名」にするかから討議しなければならないのである。さすれば「要求署名」し「請願署名」はどうちがうのか「国会法」の学習からことははじまるというものであった。次ぎは集めた署名の請願はどのようにするのか、「紹介議員」になってもらうため議員会館の入りかたから訓練である、これまで動員にいって「言われたとおり」行動するのとは、わけがちがうのだから皆真剣である。行動を逸速くおこすには上の指令まちでは間に合わない自ら学習し皆で討論していくことを情勢がもとめたのである。

たたかうナショナルセンター、ローカルセンター確立への展望

こうしたたたかいは大阪の婦人労働者をきたえた。そして要求から出発し婦人労働者の切実な要求が労働戦線問題と深くかかわつていることを実践のなかでまなんだのである。この大阪の婦人労働者のたたかいは今日まともな労働組合運動をめざす階級的ナショナルセンター・ローカルセンター確立へのおおきな力となって職場、地域にねざしていった。

こうした運動の発展のなかで堺、北河内、阪南に婦人連絡会が結成されました。

そして、一九八七年には運営委員会(事務局長制)、から幹事会(議長制をふくむ三役体制)へと体制を強化してきました。

地域婦人連絡会もその後淀川・東淀川統一労組懇で結成され四地域となっています。

また、共同闘争として大阪春闘再構築懇談会レベルでの「春闘講座」「婦人のつどい」などにとりくみ階級的ナショナルセンター・ローカルセンター確立にむけ婦人連絡会の機能と活動を発展させてきました。

さらには、大阪の婦人運動の分野でも国際婦人デー、母親大会連絡会の成功に積極的にとりくんできました。

また、八七大阪知事選挙においては労働者婦人連絡会を結成し「婦人労働者むけのビラ」の発行・配布をはじめ「代表者会議」の開催など労働婦人として積極的役割を果たしてきました。

【5】大阪の婦人労働者のたたかう伝統を継承・発展させ、ローカルセンター確立を中心課題にすえた共同闘争の発展

全日本民間労働組合連合会(「連合」)が一九八七年一一月に発足したもとで統一労組懇は八八春闘を、「人間の尊厳をまもる春闘」・「階級的ナショナルセンター確立の土台を切り開く春闘」として位置付けたたかいを展開しました。そして「連合」の政策批判のとりくみも「四野党育児休業法案」批判と結合させ、まさに「要求」から階級的ナショナルセンター確立の課題の運動を展開してきました。

婦人連絡会は、「八八春闘で婦人労働者の共同の前進」をめざし大阪春闘再構築懇談会レベルでの婦人労働者の取り組みとして二月十一日「春闘婦人労働講座」を開催し八〇名を越える参加を勝ち取りました。

さらに婦人連絡会は、「はたらく婦人の大阪集会」が開催されていないなかで「学習・交流」の場である「はたらく婦人の大阪集会」の歴史と伝統を引き継ぎ大阪にはたらく一〇〇万婦人労働者の期待に応える運動を追及する立場から統一労組懇婦人連絡会・大教組・国労・民放労・全損保の各婦人部が事務局団体として六月二五日に「春闘懇-大阪のはたらく婦人の集い」を開催し四〇〇名を越える婦人を結集し共同の輪が広がりました。また、三洋パートをはじめ争議をたたかっている婦人労働者への支援・連帯行動をも重視し、おおくの労連組合が婦人部の学習会や集会に争議団を招き連帯と支援を強めてきました。こうした取り組みは、まさに労働者・労連組合を激励し支援するナショナルセンター・ローカルセンター機能の重要な柱であり、ローカルセンター的機能を発揮しローカルセンター確立の土台をつくりあげていきました。

結成される階級的ローカルセンターが大阪の婦人労働者のたたかう伝統を継承・発展させることのひとつに、一二年間の婦人連絡会の成果と教訓を活かしてよりおおきな視野にたった運動の構築を願うものです。

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