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33年間の発言と退出 - 33年間の発言と退出カテゴリのエントリ

1993年8月
自治労連第9回定期大会の発言

公務員労働者の権利拡大闘争の視点
−8月3日にだされた人事院勧告に関連して

育児休暇闘争と実効ある男女雇用平等法策定・労基法改悪反対闘争の教訓を看護・介護休暇要求の前進にいかすために

わたしは本大会に先立って開かれた婦人部大会での討論をふまえ討論に参加します。
第6回婦人部定期大会は131名の代議員と150名近い傍聴者の参加の下たたかう方針を確立してきました。

婦人部大会の特徴のひとつは例年に比して共同する会からの傍聴者の参加が多かった事です。
大会討論は、男女賃金格差の解消、臨時・非常勤、関連労働者の組織化や労働条件の改善、のたたかい、看護・介護休暇制度の改善や獲得で多くの成果をあげた事。さらには、小選挙区制粉砕や憲法擁護、革新自治体建設など国民的、労働者的課題や闘争において婦人のエネルギーを発揮し、運動の前進と高揚に大きく貢献してきた婦人部活動の実際が語られ、参加者の共感を呼び、全体の確信となりました。この全国各地でのたたかいの教訓を全国にひろげることの重要性も強調されました。
こうした討論を経て全会一致で採択された婦人部方針の立場から本部方針に対していくつかの点で意見と要望をのべます。

第1は8月3日にだされた人事院勧告の介護休業に関連して権利拡大闘争の視点と対政府闘争のあり方について意見をのべます。
自治体にはたらく婦人労働者の実態はこの10年間で著しい変化がおこっています。それは、権利行使の低下です。職場民主化のバロメーターといわれる生理休暇の取得率が、昨年秋の全労連調査では、全体で17.7%となっています。ところが自治体職場は、9%にとどまっているのです。

これは、臨調行革による人員抑制、三無主義による週休2日制の導入、0A化の促進、仕事量の増加と能力主義や、職階給の強化などの公務員賃金・制度の改悪といった権利意識に対してのイデオロギー攻撃が強化されてきていることを物語っています。
この点では、「予算・人員」闘争と権利行使のたたかいの結合、「権利が行使できる人員要求」ではなく、「権利を行使して住民の要求に応えられる人員増」との実践的たたかいの構築がもとめられていると考えます。

今ひとつは、労働組合運動における権利拡大闘争の視点の問題です。1975年は多くの点で転換期といわれた年です。国際政治の場では、アメリカのベトナム戦争での敗北とそれにつづくアメリカの経済的地位が低下した下でのサミットの開始。国連婦人の10年へとつづく国際婦人年でもありました。国内では、今日までつづく春闘連敗への道をひらいた財界の反転攻勢とそれに屈服した労働4団体の賃金自粛路線が始まった年であり、権利拡大闘争においても、その後の労働組合運動の権利拡大闘争に大きな影響を与えることとなった「保母、看護婦、教員の育児休業法」が議員立法で成立した年でもあったのです。

公務員労働者の権利はストライキ権の剥奪で憲法違反の国公法、地公法によって規定されています。しかし、国家公務員法制定の国会答弁において労働基準法の趣旨は尊重されるとしています。
憲法27条に基づき制定された、労働基準法は女子保護規定をはじめとした様々な労働者の権利を有給とは明記していませんが、第1条第2項において、「この基準は最低のものであり、これを基準として労働条件を低下させてはならない」としており、あわせて労使双方に労働条件向上にむけての努力を義務づけています。
労働組合はこの理念に基づき権利拡大、有給獲得で多くの成果をあげてきました。

ところが75年の「育児休業法」はこうした到達や労基法の理念を踏みにじる内容を含んでいました。それは、法制定の手法として、さらなる官民分断を持ち込んだ事、公務員の賃金・権利に対し無給を法律で明記した事、在職しているにもかかわらず一時金を支給対象から除外した事、法の規定を最低基準ではなく最高基準するなど、公務員労働者の権利拡大に重くのしかかってきました。しかし、わたし達自治体労働者は各地で、職種の拡大など法を上回る条件を勝ち取ってきましたが、労基法の規定である生理休暇や産休、育児時間などの有給を獲得した権利と比較するならば、その到達は低い水準といわざるをえませんでした。さらには、長期に休んで人に迷惑をかけるのだから無給はあたりまえとした意識や代替がいないから、育休とれないとした事態さえつくりだされる事さえありました。また、一時金の不合理是正を全面にかかげた闘争も部分的にしか組織されませんでした。

つぎに、対政府闘争との関連では、1978年の労基法研究会報告による労基法の改悪に対するたたかいで、「均等法」とセットで労基法の悪を政府が提起するまでの対政府闘争の時期は我々は総評の胎内にあって運動を展開してきました。婦人少年問題審議会、国会審議の段階では統一労組懇として大きな運動を組織をしてきました。こうした経験から国会闘争のみを強調する傾向が全労連部隊に存在することも事実です。

このような状況を経て1991年男女労働者を対象とした「育児休業法」が成立しましたが、ここでも公務員法は最低基準でなく最高基準となり、部分休業という形で時間単位の休暇にも無給攻撃が持ち込まれ官民の分断だけでなく、地公、国公の分断が行われただけでなく、労基法の大部分適用である地方公務員の権利を限りなく人勧体制の枠のなかに押し込めようとする攻撃が強化されたと言わざるをえません。

こうした育児休業法のたたかいの経過からみても使用者である自治体当局に対するたたかいの強化とともに、法の位置付けやあり方、憲法27条に基づく労働者の労働条件規定の基本法である労働基準法の理念を後退させない、労働者の分断を許さないなど基本的・根本的問題での対政府闘争の強化が求められていると考えます。

今回の人事院勧告の介護休業における無給の考えに対する公務労組連絡会内での各単産の評価は様々です。

育児休業法のときは、75年の育児休業法があり、政府が法制定の意志を明らかにし、法案要綱を発表して後に人事院が意見の具申で無給を打ち出したのに対し、今回の介護休業では、政府がいまだ法制定の時期や内容を明らかにしていない時点での人事院の無給の打ち出しは、公務労働者のみならず、全労働者に与える影響は計り知れないものがあります。人勧体制が、すべての労働者の権利抑圧機構としての面を一層むきだしにしてきた事を物語っているといわざるをえません。こうした分析がなされていないことは非常に残念です。このことは、この間の家族看護・介護休暇闘争において、国会闘争と対人事院闘争が強調され、対政府闘争が十分に構築されなかった事にあらわれているのではないでしょうか。確定闘争をまえに家族看護・介護休暇要求の前進にむけ婦人部大会では、対政府闘争の強化を決定しました。

家族看護・介護休暇要求だけでなく、自治体労働者の権利拡大にむけ、人事院規則の適用でなく、労基法の大部分が適用されている自治体労働者の権利についての法制定のあり方や休暇要求での所得保障のあり方について自治労連としての基本的立場や方針を明確にすることを強く要望するものです。

第2は家族看護・介護休暇要求との関連で、地方共済組合法の法定給付である休業手当金の問題です。自治体職場においても過去の闘争の経過から全国に自治体職員であっても政令都市を中心に健康保険法適用の43健保組合法が存在しています。健康保険法には休業手当金の制度はなく家族看護休暇をとっても所得保障の面で格差が生じているのが実態です。健康保険法適用下での休業手当金に相当する措置の要求や地方共済組合法適用下にあっても、扶養者でない家族の場合の家族看護休暇取得での休業手当金の支給拡大のとりくみ、そして、国や人事院の動き次第では地方共済組合法を改悪させないとりくみなど、休暇に付随する様々なとりくみをしなければならないことが予測されます。なぜなら法定給付であっても、国家公務員共済組合法と地方公務員共済組合法では、休業手当金の支給率、算定基礎に違いがあり、低位平準化攻撃もよそくされます。

第3は社会保障闘争の課題です。
本部原案では、年金の支給開始年齢の要求を60才としています(減額繰り上げ年金の支給開始年齢を55才)。婦人部大会方針では支給開始年齢を55才の元にもどせとの要求を決定しています。
これまであった船員や抗内労働者に対しての特例措置や、看護婦など深夜労働を余儀なくされている苛酷な労働条件の下にある労働者のあらたな年金要求結集の道をひらく要求としていくべきだと考えます。

また、代議員全員に配布され、小林書記長も強調された学習の友においてP14の女性と年金の項ははたらく婦人の視点があまりにも希薄だと指摘せざるをえません。「男女格差、離婚の自由もない」との打ち出しはまさに政府のいう女性のライフサイクルの視点での問題ではないでしょうか。8月24日の毎日新聞の社説では、結論は別としてもっと広い視点で女性年金問題をとらえていたことも紹介しておきます。

ILOが1984年に出した「21世紀にむけての−社会保障の発展−経済、社会変革に対する社会保障制度への対応」という報告書のなかで『社会保障は男が男ためにつくったもので、女性が社会で負っている責任についての認識がたりないという指摘がある。さらにあたらしいライフサイクルで生活しているものに対し、古くなってしまった道徳観念や扶養に対する考え方でペナルティを課そうとするところがある』と指摘しています。まさに年金闘争において抜本的意識変革を労働組合運動の場においても求められているとかんがえます。

最後に福島副委員長が強調された女性の地位向上、社会的平等、女性の社会進出、労働組合幹部への女性の登用などの提起ですが、自治労連としてそれを達成する目標や具体的計画を早急に確立されるようのぞみます。

男女平等社会への実現にむけての男女の共同とした本部原案の参加・連帯論ではなく、組織の構成員の状況を役員構成や機関会議の構成反映し、自治体労働運動に女性の視点を盛り込み、運動をより豊かにしていくとした、女性の参画の視点こそ重要だとかんがえます。 

わたしは、参画の立場から当面する小選挙区制阻止、憲法改悪反対、埼玉での自治体にはたらく全国交流集会の成功や来年静岡で開催される第40回母親大会の成功に全力をあげる婦人部大会の決意をのべて発言をおわります。

 

1993年5月
大阪自治労連マンスリーレポート
はたらく女性と年金

参考文献
  社会保障・社会福祉辞典 
  パンフ「老いも若きも」
  大阪府衛生年報
  大阪自治労連93春闘アンケート
  西村震哉著「41才寿命説」

1.社会保障制度に描かれた女性

ILOは1984年に報告書「21世紀にむけての−社会保障の発展−経済、社会変革に対する社会保障制度への対応」で、『社会保障は家族の変化など新しいライフサイクルへの対応を準備すべきである』、『社会保障は男が男のために作ったもので、女性が社会で負っている責任についての認識がたりないという指摘がある、さらに新しいライフサイクルで生活しているものに対し、古くなってしまった道徳観念や扶養に対する考え方でペナルティを課すところがある』と指摘しています。

また、時代おくれの社会保障の特徴として

(1) 正常とはいわないまでも社会的に望ましい女性の役割は経済的に夫に依存し、有償労働に従事しない主婦であり母親である。
(2) 結婚は永続的なものである。
(3) 子供は結婚以外に産まれない。という3つの考えをあげている。

日本においても女性は、にこうした古い家族像とライフサイクルのうえにたった社会保障制度の下におかれているといえる。

さらに政府・財界はこうした時代おくれの社会保障制度の中に女性を押しとどめておくため第1に女性の賃金を極端に低くおさえ(20年ぶりに男性の半分以下の49.6%に)、はたらく女性の妊娠、出産、育児が労働生活に不利になる「母性差別」を拡大してきている。

第2には男女の役割分担の固定化と相次ぐ労基法の改悪による苛酷な労働条件を女性に押し付け、さらには保育料の値上げなど、女性がはたらき続けることへの支援策を以前に増して切り捨ててきており結果として「右あがりのM型雇用」を促進し、パート労働者の増大を図ってきている。

第3には税制度では配偶者控除を設け、社会保険料拠出を免除される妻の所得の上限を政策的に調整し、85年の第1次年金改悪のなかで主婦年金を創設し、働きつづける女性からは高い税と社会保険料を徴収する一方で年金給付を大幅にカトをするなどの女性労働政策と家庭政策を推し進め、女性の労働力を安価で切り捨て易い労働力としてこき使いながら、一方で女性を主婦にとどめおく戦略を推し進めています。

ところが、こうした中にあってもはたらく女性の増加、共働き世帯が非共働き世帯を上回る、出生率の低下、貧困な住宅政策のもと「家族の規模の縮小化、構成の単純化、直系家族から夫婦家族への移行、多就労化、家族機能の縮小・家族の解体の進行」と家族は変化してきています。

にもかかわらず、旧来の家族・親族関係を前提とした、社会保障・社会福祉施策は、はたらく女性を社会保障の枠外に追いやってきているのです。

そして、今回の年金制度の改悪は旧来の男女格差を温存し、全体の水準を引き下げるものではたらく女性にはダブルパンチの攻撃といえます。

いまもとめられているのは、社会環境、女性のライフサイクルの変化に対応した社会保障制度の改善こそもとめられています。

2.現存する年金制度上の男女格差

 

(1)被保険者の性別で異なる遺族年金の給付

遺族年金の支給対象は上記表のようになっており、子のない55才未満の夫は所得に関係無く対象外となっている。
このように、ここでも働く女性の遺族年金は基礎部分でも厚生部分においても掛け捨て部分が男性より大きいという制度となっている。これは母子家庭、父子家庭の問題以前に男女が同じ保険料を払いながら、女性の場合は掛け捨て部分が多いという男女格差にほかならない。

(2) ついて回る賃金格差

所定内給与と年金額の男女比較   (単位:円)

(3) M型雇用の下での勤続年数と給付額

3.掛け金を前提とする保険制度の下で掛け金は個人、給付は世帯単位とする現行制度の差別と格差

(1) 共働き世帯の増加

91年調査では全国で共働き世帯が50.7%、非共働き世帯が49.7%となっており、共働き世帯が非共働きを1.0ポイント上回っている。大阪自治労連の93春闘アンケートではフルタイムの共働きで4ポイント、パートもふくめれば12.4ポイント共働き世帯が非共働き世帯を上回り、公務員職場では共働き世帯が多いことを示している。

(2) はたらく女性におおきな負担(助け合いの精神で主婦年金の肩代わり)

(3) 低い年金額−年金権の放棄(夫の遺族年金が本人の年金額を上回る事例)

(4) 1人の年金では暮らせない(独居老人の大半は女性)

4.平均寿命の盲点と幻想

厚生省のいう平均寿命とは、その年に生まれたゼロ歳児に先輩たちの年令別死亡率をあてはめ、彼らがその死亡率どうりに死んでいくと仮定した場合の平均生存年数(平均余命)のことである。

この平均寿命はゼロ歳児が先輩の死亡率どうり死んでいくことにかぎり意味があるのであって、そうならない場合を考慮していない。だが、今年生まれたゼロ歳児たちが明治や大正からの生き残りである老人や、物資が乏しかった時代を生き抜いてきた、昭和ヒトケタ世代の年輩者のように生き、そして死んでいくことはありえない。戦後とくに高度経済成長期以降の劇的な生存条件の変化(空気・水の汚染、農薬・食品添加物などによる重金属、化学物質の大量摂取、苛酷な労働による過労死の多発)を想定するとき、両者を同じものとして考えることがどれだけ無理なことかは、もはや言うまでもない。

(1) 女性はすべて男性より長寿なのか−はたらく女性は82才まで生きられるか

年々変化する死亡の要因(環境と労働の影響)

(2) 厚生省の平均寿命説の幻想を打ち破る様々な指標

(イ)41才寿命説から

 ロ)大阪の女性の寿命は全国1短いという数字

(ハ) 大妻女子大学調査

1972年から10年間に死亡した大卒者3800人の平均寿命

5.年金財源はこうすれば確保できる

年金パンフ「老いも若きも大変」では年金財源の確保として
(1) 不公平税制の是正で15兆3645億円
(2) 3万円の賃上げで    7兆5000億円
(3) 軍事費削減で        4兆6000億円
などをあげています。

6.男女の賃金格差解消で15兆円の財源が

この財源確保を女性の視点でみてみると男女の賃金格差を解消することによってもおおきな年金財源が確保できるのです。
男女の賃金格差は1975年を頂点にそれ以降年々格差が拡大してきており、1991年には20年ぶりに50%切ったという数字がでました。これは世界でも最低の水準でILOの報告でも韓国、キプロスと最下位を競っていると指摘されています。
こうした実態から男女の賃金格差の解消は上記賃上げ効果と同様の計算式でも下記のような財源が確保できることになります。

(1) 1975年水準の60%にもどすことで3兆円
(2) イギリス並の70%にひきあげることで6兆円
(3) フランス並の80%にひきあげることで9兆円
(4) 北欧並の90%にひきあげることで12兆円  
(5) 男女同一賃金では15兆円となります。

ところが男女の賃金格差の解消はこれだけの効果だけでなく、格差の解消によってこれまで社会保険料を払っていなかった パート労働者が社会保険料を支払う効果(事業主負担分もそれに伴って増える)、一方で3号被保険者(主婦)の減など計算以上の効果をうむことも明らかです。

1992年9月
大阪労連婦人部事務局長退任のあいさつ

事務局長を退任することとしました。1972年に府職労の婦人部長に就任して、20年間労働組合運動のなかではとりわけ女性の場合何事も続けることがひとつの力となり得るとの思いから、様々な任務や役割を続けてきましたので、退任のあいさつをするのは大阪レベルでは今回が初めてです。1973年に当時の自治労の大阪府本部の婦人部長と大阪総評婦人協議会常任委員になってから、府的な場での労働組合婦人部運動や婦人運動にたづさわってきましたが、今回大阪労連の役を降りることで府的な場での運動からしりぞき、産別と府職労の運動に専念することにしました。黒田革新府政の誕生、はたらく婦人の大阪集会の統一、全国に先駆けて大阪で統一労組懇婦人連絡会を結成したこと、国際婦人年のとりくみ、労基法改悪反対・均等法の取り組みでの東京への単身赴任、大阪労連の結成など様々なたたかいや運動を経験してきました。

そのなかで、この20年間、私の行動の基本は、婦人労働者の要求実現のため何が必要かであり、婦人労働者の利益を擁護すること、組合員の立場で物事にあたること、そして、自らも労働者として要求を常にもって運動に対処するということでた。そして、私は自らの発言は他の役員や幹部に責任をもつものではなく、組合員に対して責任をもつべきとの信念でことにあたってきました。ですから、論争もしました、私はいろんな考えの人が集まって要求で団結する労働組合の基本は討論によってこそ前進が図られると考えています。仲良しクラブ的運営や、ことなかれ主義では、相互批判もなければ自己批判もありません。また、私は誰かが決めた結論に参加するだけではなく、自分の頭で考えみんなで討論をする参画の立場を追及してきました。

また、わからない事は人に聞く、聞くのが厭だったら学習する、そして、オールマイティの人間はいないのだから、自分の不得手の分野を自覚し、みんなの知恵を借りて運動や政策的方針を確立し、婦人部運動の前進を図ろうとしました。この最たるものが先程もふれた労基法改悪反対、実効ある男女雇用平等法策定の運動で5才の子どもをおいて東京に2カ月あまりの単身赴任でした。これも中央で要請されたわけでなく、大阪のたたかいになにが必要か、要求の前進にむけ何をしなければならないかで、仲間と相談し、全国的たたかいの高揚が必要だとのおもいから、府職労に掛け合って、府職労での財政負担を認めさせ、押し掛け女房的に東京にでかけました、プライドの高い東京の人には何しにきたんやとの対応もされました、当時自治体労働組合は階級的中央単産をもっていませんでしたから、援助してくれる人もいません、統一労組懇総会での婦人部の位置付けに関する私の発言が男性幹部批判のみが強調され、白い目でみられる中、大阪のそして全国の労基法改悪反対の婦人労働者に依拠してあの7000人の日比谷での集会を成功させるため奮闘しました。

7000人の集会なんて失敗したらどうするのか、という中央の男性幹部の危惧を全国の婦人労働者のたたかうエネルギーはこれを実践的に吹き飛ばしました。しかし、これとて自然発生的にたたかが組織されたのではありません。たたかう婦人労働者に依拠した、ものを言う部隊がいてこそ運動を大きく前進させたと私は確信しています。

大阪労連婦人部の結成に参画し、婦人部として基本組織である大阪労連の決定機関である大会や評議委員会に代議員・評議委員として出席できるという婦人部の位置付けや、在り方についても全国では大阪労連だけの組織的運営を実現させることができました。全労働者的課題に女性の視点を反映するという点では、年金要求での55才支給開始年令の要求の全体の要求とする――これも大阪だけの到達点ですが、これまでの大阪における労働組合婦人部活動の到達や婦人労働者の切実な声を階級的労働運動に反映することに全力をあげてきました。また、大阪の婦人運動にも組織された労働者の任務と役割をはたすべく母親運動の任にもあたり第37回日本大会の成功にみなさんとともに奮闘してきました。

ところが、今年、大阪労連婦人部としての大阪母親大会連絡会の私常任委員推薦に当たって、「理由をあきらかにされず」推薦を圧し止められようとしました。また別の場では「新しいレベルで新しい力」をと暗に退任をほのめかされました。さらに、「中居さんがいると若いひとが育たない」「中居さんみたいに10歩さきを進む人は労働運動にはむかない」「婦人部より親組合でやった方がいい」などとささやかれはじめました。

10年も前でしたら、こうした動きをものともせず、婦人組合員に依拠して運動するエネルギーもありましたが、40も半ばを過ぎると、「必要とされないところ」に居座る気もありませんし、活動する場はまだ残されていますし、やりたいこともたくさんあります。

はたらく婦人の大阪集会の件でも、歴史的事実をうやむやにすべきでないとする私の主張は「すこしジャマ」なのかもしれません。

私は発言できる場をかえて引き続く討論に参画していこうと考えました。

日本独特の組織形態として存在している労働組合運動における婦人部組織は世界にお手本がありません。歴史的にも戦後直後の産別会議においても様々であり、総評運動のなかにあっては、右翼的労働組合と反動勢力からの攻撃のもと産業別にも、地域的にも手探りで婦人部活動がとりくまれてきました。 

ローカルセンターの位置と役割を発揮するには体制と運動そして政策の3つの面でのとりくみが重要です。婦人部の場合それに加えて労働組合運動における婦人部の位置付けがこの3つの課題と密接に関連するという状況にあるわけです。しかし、政策面での取り組みが後方に追いやられ、上意下達や上部の方針まち、上部の方針に意見を言えば、文句としかうけとられない風潮など婦人部活動が全面発達しているとはいえないと思います。

大阪労連は今日的到達を今月4〜5日に開催した第9回大会方針で『定着から前進へ』と規定していますが、婦人部はまだその域に達していないのではないでしょうか。

ナイロビ将来戦略の達成にむけ国連は「女性2000年への挑戦」とした世界的キャンペーンをおこなっています。

それには「1990年代は民主化を触媒として、機会を失う悲劇的な時代となるか、それとも女性の地位向上と文明全体にとっての画期的な時代となるのかの、決定的な10年になろうとしている」としています。

わたしは、これは労働組合婦人部にとっても示唆ある指摘だと考えています。私はこれを労働組合運動に引き寄せ「1990年代は階級的ナショナルセンターの確立を契機として、労働組合婦人部が機会を失う悲劇的な時代となるか、それとも女性の地位向上と労働組合運動全体にとって画期的な時代となるのかの決定的10年になろうとしている」とうけとめ、これからも労働組合婦人部運動の前進にむけ部署を変え奮闘するつもりです。

いろんなことをいいましたが、本当にいろんな人に出会い、いろんな事を学びました。いろんな事にもでくわしました。これで「ホッ」としている方もいらしゃるのではないかと思います。

そして、心配してくださる方、これはないと思いますが、気持ち良く付き合って戴いた方、常に励ましていただいた方、共に歩んできた人達、そして何よりも私の活動を支えてくれた仲間のみなさん皆さんにお礼を申し上げ、退任のあいさつとさせていただきます。
 

1990年9月 大阪労連大会発言

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33年間の発言と退出
執筆 : 
webmaster 2011-5-19 15:46

1990年9月
大阪労連大会発言

婦人部は議案書P9.95にあるように3月8日の国際婦人デーの日に結成大会を開催し活動を展開してきました。

そのなかでも、国鉄解雇撤回闘争においても、婦人部独自のとりくみとして、7月8日〜10日の3日間国労の婦人オルグ2名を受け入れ、府下10数箇所の職場オルグの実施と、オルグ団激励集会を開催してきました。こうした取り組みは京都、愛知にも連動していき、全労連・大阪労連に国労が加盟している全国的にもおおきな意味をもっている大阪としての役割を大きく発揮したとりくみだとかんがえています。

大阪労連婦人部の6ヶ月の間のたたかいのなかで1月に結成された北河内地区協議会婦人部を皮切りにそのご堺労連、富田林東部労連に婦人部が結成され北摂地協はじめいくつかの地協・地域労連において婦人部準備会が結成され婦人部の確立にむけ準備がすすめられていることを報告しておきます。

次ぎに、方針部分について意見をのべます。

大阪にはたらは婦人は112万人となり、年令構成も10年前には29才以下が46.1%であったものが今日34.3%と減少し、逆に35才〜49才の部分が36.4%から46.7%へし増加し、一方では、はたらは婦人の4.5人に1人が単独もしくは主に家計を支えているとしたこれらの数字は、まさに、職場でも家庭でも重要な役割を担っていることを物語っています。

しかし、人べらし「合理化」による過密労働、男性並の「括弧」つきの平等や臨調「行革」による福祉や医療の切り捨ては婦人労働者に重くのしかかってきており、「人間らしくはたらき、人間らしく生活する」という要求スローガンはまさに婦人の切実な願いです。

そして、この「人間らしくはたらき、人間らしく生活する」という内容をもっと深めて論議すべきだと考えます。医労連の高橋さんの発言にもあったように看護婦の夜勤をはじめとして、保母の乳児や幼児を相手とする長時間にわたる中腰の仕事、教員のプール指導や登山授業、一般の事務職にあっても老眼鏡をかけてのOA機器の作業など体力の個人差はあったとしても50才を越えると耐え難い勤務や労働です。

こうしたことは、婦人の場合昇任などの差別が現存している現状のなかで定年までつづきます。昇任の差別は賃金問題にとどまらすきびしい労働がつきまとってくるのです。交替制勤務、深夜労働、そして家族的責任を背負って労働しているのです。西淀病院の田尻先生は、女性が長生きするといわれているが、60年代以降婦人労働者が急激に増え、今日苛酷な労働条件においやられているなか、10年、20年後の平均寿命は大きな変化が現れるのではないかといわれました。また、大阪の市町村職員の平均年金受給期間は6年といわれています。

交替制勤務や深夜労働をしなければならない労働者の労働時間はどうあるべきか 、苛酷な状況にある婦人労働者の年金制度はどうあるべきか−まさに「人間らしくはたらき、人間らしく生活する具体的要求づくりが求められているとおもいます。そうした点でP22の4にある65才の定年延長要求は言葉足らずではないでしょうか。65才まではたらき続けることが人間らしいといえるのでしょうか。

一方でP26の社会保障のたたかいの項に年金制度にたいする具体的要求の記述がないのでより強くそのことを感じるわけです。わたし達は年金制度では女性の55才支給開指へ元に戻せとを要求します。なぜ健康保険の改悪に対しては、翌日から元に戻せとたたかっているのに年金ではそうならないのでしょうか。婦人差別撤廃条約でも「完全な平等が実現するまでの特別な措置はこれを差別とはみなさない」とあります。まさに婦人のおかれている現状からくる切実な要求と全労働者的要求実現とを結合させるたたかいと政策提起が求められているとおもいます。女性が人間らしくはたらき、生活するとき男性もまた、人間らしくはたらき、生活できるのではないでしょうか。

最後に3点第1は重要なたたかいである知事選についてですが、わたし達も全力をあげてたたかおうと大阪労連婦人部は12月6日は府立労働センターで知事選勝利婦人労働者決起集会を開催します。これまで婦人労働者はそれぞれの単産、地域において、労働者連絡会や婦人連絡会に結集して知事選をたたかってきました。大阪労連ができた今日「明るい会」やさまざまな分野ごとの運営にもローカルセンターとしての役割や位置付けというものが求められていると考えます。早急にこの問題での討論、協議の場を作っていただきたい。

次ぎは、来年7月27日第37回日本母親大会の全体会が大阪城ホールで開催されることになりました。是非みなさんのご協力というかいまから覚悟のほどよろしくおねがいします。

3つめは、日本シェーリングのたたかいも新たな段階にはいり闘争支援共闘会議では、高裁差し戻しの部分においても全面勝利にむけ会社にインパクトをあたえる一大行動として本社前の座り込み行動を計画しています。これは淀川にある本社ではなく、ドイツのベルリンにあるシェーリングの本社前でやろうというものです。11月下旬という大変忙しい時期になりますが、大阪労連婦人部としても積極的に取り組んで行きたいと考えています、代表派遣にあたって各単産、地域労組でのご配慮をおねがいして発言を終わります
 

1990年 3月
自治体労働組合運動の前進と婦人部活動の発展をめざして

1990年自治労連発足にあたって

1、自治体婦人労働者・労働組合の戦う伝統の継承・発展を

−自治体労働組合運動の若干の歴史と婦人労働者のたたかいの特徴−

1)我国の労働者は戦前と戦後の一時期に階級的ナショナルセンターをもっていました。また戦後直後にはたたかう自治体産別をもっていました。しかし、戦前は天皇制絶対主義の下であり短期間で弾圧され、戦後直後と今日の社会・経済状況、労働者の状態とりわけ婦人労働者の状態とは、大きく変化していることを認識したうえでの、たたかう伝統を継承させるとともに発展させることこそもとめられています。

2)自治体労働組合運動の歴史

<戦後から1950年代――たたかいのはじまり――反動攻勢・組織分断――組織の再統一>

自治労連の結成

地方自治体の職場で戦後いちはやく労働組合の結成・再建にとりくんだのは、戦前の経験をもつ大都市の交通労働者でした。自治体労働組合の場合は、府県庁職員の労働組合−全国公共団体職員労働組合連合会(全公連−23万人1946年6月14日結成)と都市職員の労働組合を結集して日本都市職員労働組合同盟(都市同盟−7万人1946年11月20日結成)が結成されました。

戦後直後のインフレと食糧難のなかで飢餓突破、食える賃金をとのたたかい、2・1ゼネスト態勢のたたかいを経て、1947年5月3日の憲法施行、地方自治法の公布で都道府県職員も市町村職員も自治体労働者としての共通の基盤をもつことになり全公連と都市同盟は、47年11月10日我国最初の自治体労働者・労働組合の全国組織、日本自治団体労働組合総連合(自治労連−29万人)を結成しました。自治労連は組合員の政党支持の自由を保障するなど積極的方針をかかげました。

戦後の反動攻勢期

2・1ゼネストを権力でもって中止したアメリカ占領軍は2・1ゼネストの中心部隊となった公務員労働者に攻撃を集中しスト権剥奪、「行政整理」、定員法による大量首きり、「レッドパージ」の強行のなかで49年1月分裂組織である全日本自治団体労働組合協議会(自治労協)が旗揚げされました。さらには、アメリカ占領軍と独占資本の全面的支援による総評が結成されていきした。また、国家公務員法の改悪に次いで地方公務員法が制定され公務員労働者の労働三権を制限し民間労働者との分断攻撃が強められました。

地方財政危機と統一自治労の結成、住民共闘の追及

日本経済は、“朝鮮特需・軍拡ブーム”で大企業はよみがえりましたが、朝鮮戦争の終結で再び深刻な経済危機・不況にみまわれ、地方財政にも大きな影響をあたえ、危機が激化した52年には予算編成ができない自治体が続出し、全国で自治体労働者の大量首きりが計画され、政府も交付金の増額と引き換えに首きりをせまりました。

地方財政危機の増大化のなかで、自治体労働者には首きりと賃下げ、49年の人勧凍結、50、51年の人勧値切り、54年の人勧見送りの攻撃がつよまり、自治体労働者・労働組合は統一してたたかう機運がつよまり54年1月28日島根県松江市において統一大会が開催され25万人の自治労が結成されました。そして、自治労は「地方財政再建特別措置法」(55年12月公布)に基づく“赤字再建団体”指定の攻撃に直面し第4回大会(56年)に住民共闘の必要性を自覚し地方自治研究活動(自治研)を組織し全国集会を開くこととしました。

<1960年代――60年安保闘争、賃金闘争の高揚と統一戦線・行動に背を向けた総評・自治労の反共、特定政党支持路線の強化>

産業別組織としての機能を発揮し自治研活動、歴史的な安保・三池闘争と結合した賃金闘争、国際反戦デーと結び付けた公務員共闘の統一ストライキの実施など自治体労働者・労働組合の運動は大きく高揚しました。

しかし、一方では空前の賃金闘争をたたかい新たな発展をとげようとした「衛都連」に対する不当な除名(68年復帰)。特定政党支持の押し付けや共闘・共同闘争にも特定の考えをおしつける社会党・総評ブロックの統一戦線、統一行動に背を向けた方向は原水禁運動(1965年)はたらく婦人の中央集会(1964年)の分裂、母親大会実行委員会からの総評の一時期(1966・67年)の脱落など今日に続く弱点を内包していました。

<1960年後半から70年代前半の革新自治体建設と結び付いた自治体婦人労働者の権利前進>

1960年代のもう1つの特徴は当時20年近くの歴史をもつ京都蜷川民主府政に続き東京・沖縄における革新勢力の勝利、71年の大阪へ、そして全人口の半数ちかい住民が革新自治体の下で生活するというと地方政治革新の時代へとおおきなうねりを作り出して行ったことです。

自治体労働組合個々のたたかいの発展

自治労連時代は青年婦人対策部、自治労に組織統一してからも婦人部結成は1958年と産別としての婦人部組織の確立が他の産別組織にくらべ遅れていました。そのことは、自治体労働運動においては戦後直後の飛躍的な婦人労働者の権利拡大闘争や戦後第一の反動攻勢に抗して立ち上がった婦人労働者のたたかいをはじめ、50年代60年代前半の全国的な運動には個々の労働組合婦人部でのたたかいはあったものの産別としての婦人部機能の発揮は不充分であったといえます。そして、1960・61年の一時期を除き民主的婦人部長をもつことができませんでした。

しかし、革新自治体建設と結び付いた自治体労働組合婦人部活動は各地で大きな前進をとげ60年代の婦人の権利拡大の牽引車の役割をはたしました。さらに、婦人労働者の増大のなかで婦人の要求は「母性保護」から「育児要求」へと要求が多面化していきます。そのなかで「育児休暇要求」が大きくとりあげられ、自治体労働者のなかで「論争」が巻き起こりました。婦人の権利拡大において全国的なたたかいに初めて自治体婦人労働者が登場したといっても言い過ぎではありませんでした。自治労婦人部の特定政党支持路線と結び付いた運動の弱点とたたかいながら自覚的婦人労働者・婦人部は高度成長で自治体婦人労働者の増大、状況の変化に対応し1975年の国際婦人年、1985年までの国連婦人の10年へと婦人部運動を発展させていきます。

<1970年代後半――世界的不況と地方財政危機の下での革新自治体つぶしと自治体労働者に対する攻撃の激化−民主的自治体労働者論の提起>

世界的不況のなかでの自治体労働者にたいする攻撃の強まり

オイルショク・ドルショクという世界経済の危機のもとで日本経済は低成長時代に入ったものの、資本・財界の労働組合の取り込み作戦のなか独占資本はぼろ儲けを維持します。しかし、一方では失業者の増大、中小企業の倒産と日本経済の不況は地方財政を20年ぶりに深刻な状態に追い込みました。そして、地方財政危機をテコとして自治体労働者への人件費攻撃、革新自治体つぶしの攻撃が強められていきます。

こうした反動攻勢の下で、1975年3月日本共産党は「住民本位の行政を効率的な機構で−地方自治体の人件費問題その他をめぐる日本共産党の見解」を発表しました。しかし、自治労指導部はこの「見解」を革新政党の「提言」として真剣にうけとめ、深く検討するという態度をとるのでなくその根深い反共主義から、これに反発し運動の新しい方向を探求するという態度をとりませんでした。

春闘連敗のはじまり

74春闘は異常なまでものインフレと不況の同時進行のなかで社共を中心に労組・民主団体が「インフレ反対・国民生活防衛の国民会議」を結成し、全国民的なたたかいのなかで史上最高の30%・3万円を越える賃上げを獲得しました。この74春闘の教訓にたって、春闘を真に国民春闘として発展・強化させることがより鮮明となりました。

しかし、一方では日経連が「大幅賃上げのゆくえ検討委員会」を設置し「賃上げのガイドライン」を示すなど、独占資本と自民党政府は強力な春闘対策の布陣を敷いてきました。こうしたなかで、公務員労働者の賃金闘争やストライキ権の回復についても人事院勧告制度打破を展望し国民的な共闘の発展のなかで、政府の公務員労働者に対する底賃金政策やストライキ禁止の不当性を明らかにしたたたかいが重要であることが、この時期にたたかわれた「公労協」のスト権ストの教訓や自治体労働者の賃金確定における賃金抑制攻撃のなかで実践的に明らかにされました。

ところが、自治労は画一的なストライキ論に固執し、かたくなな賃金闘争方針を打ち出し、総評は独占資本の強固な春闘対策の壁を突破出来ないなかで同盟主導の労働4団体共闘に傾斜していき春闘連敗のドロ沼に入り込んでいきました。

<国際婦人年−国連婦人年の10年のたたかいのなかで自治体婦人労働者・婦人部運動の新たな発展>

婦人労働者への新たなる攻撃と運動の発展

婦人労働者の切実な要求実現のエネルギーにたいし、独占資本と自民党政府は執拗な攻撃をかけてきました。

労働基準法は1947年の制定以降一貫して「資本側の改悪要求」にさらされてきたといえます。公務員労働者からスト権を奪い1948年には国家公務員法の改悪、1950年には地方公務員法の制定で国家公務員を労基法の大部分から適用除外、地方公務員も部分的に適用除外し労働基準法の適用において労働者の分断をおこなったのです。

一方では施行規則の改悪で労働基準監督署への届け出義務をもなくし労働者の権利取得情況を労働行政の監督外に押しやってしまうのです。そして、朝鮮戦争による「特需」をきっかけに「復活」した独占資本は1951年には「労働基準法の改正に関する要望」(日経連)を政府に突き付け1952年「時間外労働、深夜業の制限緩和」が強行されました。まさに戦後第一次の反動攻勢期だったのです。

その後も1955年の日本生産性本部の発足、1969年の労働基準法研究会の設置、1970年東京商工会議所の「労働基準法に関する意見」、1970年代相次ぐ「労基研報告」さらには、事業所の増大とは逆行する労働基準監督官の削減、労働省通達による規制緩和など「運用による改悪」と労働基準法の全面改悪への準備が同時に着々と進められていきました。

そして、戦後第2の反動攻勢期といわれた「戦後政治の総決算路線」の攻撃のなかで健保・年金の改悪、労働者派遣法の制定(職業安定法の改悪)等とともに労基法が「均等法」とセットで改悪が強行されていくのです。
政府・財界の「労働法制改悪」の本音は1982年にだされた関西経営者協会の「労働基準法の改正にかんする意見」に見事にあらわれていました。

「意見書」は労働行政の規制緩和を求め、「労使自治」の強調などまさに労働戦線の右傾化を横に見ながら資本の意図を貫徹しようとするものでした。

婦人の課題でいえば、独占資本と自民党政府は1970年の「東京商工会議所の意見」では『女子過保護論』を展開し、1975年の国際婦人年を経た1978年の「労基研報告」では『保護か平等の二者択一論』をだし、「均等法」では『平等実現のためには保護の切り捨て』と婦人労働者のたたかいに対応した執拗な攻撃をすすめてきたのです。

「均等法案」にたいするたたかいは、「実効ある男女雇用平等法制定」という新たな法制度の要求と「労基法改悪反対」という制度改悪反対に取り組むという、過去に婦人労働者が経験したことのない運動であり、統一労組懇婦人連絡会を中心にした自覚的・階級的勢力が既存のナショナルセンターを乗り越え、全国的闘争を組織するという面においても近年希にみるたたかいでした。

1960年代後半から運動を発展させて来た自治体婦人労働者は、男女平等要求のたたかいにおいても全国的たたかいの先頭にたって奮闘しました。1984年4月14日の中央決起集会をはじめ地方段階での共闘組織でも中心的役割をはたしました。

世界の婦人運動と呼応した婦人部自治研活動という新たな視点

1975年の国際婦人年それに続く国連婦人の10年の国際的婦人運動のなかで『世界行動計画』(1975年)『後半期プログラム』(1980年)『2000年にむけての将来戦略』(1985年)が世界婦人会議で策定されました。これらの文書は世界の婦人のたたかい、運動を反映しており「婦人が創くりだした今世紀最高のガイドライン」といわれる内容をもっていました。

これらの計画・戦略は第一義的には各国政府にむけられたものですが、自治体をふくむ公的機関においてもその実行がもとめられており、都道府県を中心に自治体行動計画の策定も始まりました。まさに、「婦人の地位向上にむけて自治体行政の果すべき役割」が問われたのでした。

そして、このことは職能的自治研の域を出なかった「自治研活動」に『婦人の視点』を提起するに至りました。革新自治体や自覚的・階級的自治体婦人労働者は世界の婦人運動と呼応して「自治体行動計画」の策定にむけ「婦人部自治研」を展開していきました。

同時にこの時期は「戦後政治の総決算路線」に基づく第2次臨調の設置で臨調行革攻撃の嵐が吹き荒れました。「軍拡・臨調」が国際婦人年の目標である「平等・発展・平和」とは相入れない政策であることをこの運動は明らかにしていきました。

この取り組みは一部の都道府県職労と政令都市職労にとどまっていますが、自治体労働運動の婦人部活動の新たな分野として発展させていくことがもとめられています。

まさに、1954年の地方財政危機で自治体労働者が住民との共闘に足を踏み出し、60年代の賃金闘争、そして革新自治体建設と地方財政危機のなかでの自治体労働者は民主的自治体労働者論を発展させていきます。

さらに、戦後第2の反動攻勢によるあらゆる制度改悪と臨調地方「行革」攻撃の嵐に直面した自治体婦人労働者は自治体労働組合運動、婦人部活動の原点や可能性を追及し運動を発展させてきました。

<労働戦線の右傾化に反対、男女平等をかかげて運動した――全国交流集会の10年>
 
自治体にはたらく全国婦人の交流集会は労働戦線の右傾化が進行した、1980年に京都で第1回を開催しました。全国交流集会は「経験の交流から要求実現のための政策の提起」「全国統一闘争の経験−政策的優位から組織的優位へ」「交流・学習から恒常的連絡組織の確立、共同闘争の発展へ」と情勢と婦人労働者が要求する内容と発展していきました。

2、歴史の教訓から学もの

以上概略的に、年代を区切って自治体婦人労働者・労働組合の歴史の特徴をふりかえりました。(上記のほかに自治体婦人労働者のたたかいは数多くあることを強調しておきます。)

今日、全労連が結成された下で、自治体労働組合運動の分野においても、協議体産別から連合体産別組織への移行・発展を勝ち取りました。

自治体婦人労働者と労働組合が歴史の教訓から学び弱点を克服し、伝統を継承・発展させる課題はなになのかを明らかにしていくことがもとめられています。

1989年3月
おおさかの労働戦線と婦人労働運動
婦人代表者会議の結成


(大阪統一労組懇20年誌)

大阪の統一労組懇運動における婦人労働者の組織的運動は、全国にさきがけて1976年8月大阪国公婦人協の提起により統一労組懇加盟労組を中心とした婦人労働者の交流の場として「婦人代表者会議」として発足したのがそのはじまりです。

1976年という年は婦人労働者にとっては1975年の国際婦人年をうけ「男女平等」の世論が大きく高まり、労働組合婦人部の活動にも大きな影響をあたえました。

一方、労働組合運動全体では春闘が連敗のドロ沼に入り込んでいった時期であり、労働組合運動の流れがおおきく変わっていく時期にあったといえます。

大阪では黒田革新府政の第2期誕生をめぐって大阪総評や同盟など右翼的潮流が資本と一体となり反共・差別・分断攻撃を集中させ、婦人運動の分野においても、 国際婦人デー大阪集会、保育要求集会の分裂がひきおこされました。

大阪地評婦人協議会は1976年以降「ローカルセンター」としての積極的役割を放棄し始めるもとで大阪の婦人労働者の期待に応える組織として婦人代表者会議は活動の第一歩を踏み出しました。

発足当初は中央には統一労組懇の婦人部組織はなく大阪的課題はもとより全国的課題においても大阪独自で運動を展開させなければなりませんでした。

77・78春闘では春闘講座を開催し統一労組懇加盟以外の民間労組をも数多く結集した画期的なとりくみとなりました。

1978年11月労働基準法研究会報告(婦人労働者の労働基準のありかた)がだされ労働基準法の改悪の具体化が一層強化されてきた。1979年1月ようやく中央統一労組懇婦人連絡会が結成されたものの地方段階で婦人組織を結成しているのは大阪だけでした。

1980年の社・公合意は労働戦線の右傾化に拍車をかけ総評は、「安保条約容認・賃金自粛路線」を突き進んでいきます。

婦人労働者のたたかいの分野でも総評婦人局が日本母親大会から脱落し、「労基法改悪に反対しない」など婦人労働者の要求や願いに背をむけていきました。

大阪においても限定された団体とはいえ統一して開催されていた「はたらく婦人の大阪集会」も82年度を最後に開催されなくなりました。

80春闘において大阪統一労組懇婦人連絡会は「労基法改悪反対、真の男女平等法制定」の要求を掲げワッペン2万枚、ステッカー1万枚を作成し宣伝活動を重視した取り組を展開し、あわせて「労基研報告に対する医学的反論」の冊子を作成し学習活動も重視してきた。こうして6月には、民法協、労組、婦人団体の参加による「労基法改悪に反対し、真の男女平等法制定をめざす大阪連絡会」への結成と運動は発展していきました。

そして、81年には大阪独自の「労働基準法改悪阻止、はたらく婦人の権利と地位の向上を要求する請願署名」の取り組みを展開し5万名を集約しました。

労基法改悪反対、実効ある男女雇用平等法制定をめざすたたかい

1985年5月に成立した「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保を促進するための労働省関係法律の整備に関する法律」(いわゆる.「均等法」とセットの「労基法改悪」)に対する大阪の婦人労働者のたたかいは、国会史上希に見る女性達のたたかいといわれた101、102国会闘争を頂点に約8年間にわたるたたかいとなりました。この時期は労働戦線の右翼再編が進行し、全国の政治状況を先取りするといわれる大阪において労働運動の階級的潮流である統一労組懇婦人連絡会(当時代表者会議)と大阪地評など既存のローカルセンターとの違いが鮮明になった歴史的なたたかいとなりました。

1947年に制定された労働基準法は一貫して「資本側の改悪要求」にさらされてきました。
そして、戦後第2の反動攻勢期といわれた「戦後政治の総決算路線」の攻撃のなかで健保・年金の改悪、労働者派遣法の制定(職業安定法の改悪)等とともに労基法が「均等法」とセットで改悪が強行されていくのでした。

政府・財界の「労働法制改悪」の本音は1982年にだされた関西経営者協会の「労働基準法の改正にかんする意見」に見事にあらわれていました。「意見書」は労働行政の規制緩和を求め、「労使自治」の強調などまさに労働戦線の右傾化を横に見ながら資本の意図を貫徹しようとするものでした。

労働戦線問題が見えて来た

労基法の改悪は1983年以降まさに正念場のたたかいをむかえました。1983年12月21日に公開された婦少審審議の中間報告は総評をふくむ労働側委員が「男女平等をはかるため何等かの法律をつくる」として「妊娠・出産にかかる母性保護を除いてみなおす」ことに合意し「女子保護規定の適用をうけたものとうけなかった者のとの間で、昇進・昇格にあたって取り扱いに差が生じる問題については、当面法律による一律規制の対象としない」との財界への屈服ぶりをみごとにみせつけたものとなり労働者のおおきな怒りをかいました。
こうした「労働側」の姿勢は、法案作成やその後のたたかいにおおきな影響を与えました。

1984年3月26日婦少審は「建議」をまとめ4月19日労働省は「男女雇用平等法案要綱」を発表しました。政策・制度要求は労働4団体共闘ですすめるとする総評は全民労協、労働4団体の枠内のとりくみに終始しました。

全民労協・労働4団体は1984年4月17日「合同対策会議」を設置し「雇用の全段階を禁止規定とかる考え方を通すことは困難、現実的対応を取らざるを得ない」と労基法改悪を容認し「均等法」とセットの労基法改悪の101国会成立を強く押し出しました。

そして、労働省の「男女雇用平等法案要綱」を「不満」として婦少審の審議を拒否をしたもののわずか1週間とたたない4月25日には審議に応じました。

また、総評は83春闘で取り組んだ政府宛署名を政府が法案を国会に上程し政府としての態度決定が終了した段階で要求署名を提出するにいたり、5月26〜27日に予定していた総評・中立労連主催の「第29回はたらく婦人の中央集会」を6月1日の決起集会に切り替えたものの総評の単独主催となり集会スローガンに労基法改悪は欠落していました。

さらには、60人の特別婦人代議員を参加さした総評の臨時大会では、「労基法改悪反対を方針に掲げるべき」との発言に対し真柄事務局長は「労基法に対して、これを反対あるいは是認という既存の概念なり、基準の枠組みのなかで雇用における男女平等を考えていこうとすると運動の前途、実態にあわないものが出て来るのではないか」と答弁しました。
こうした婦人の要求とかけはられた言動は労働戦線の右翼再編が労働者に何をもたらすのかを婦人労働者のまえに明らかにしたといえます。

大阪においても、地評婦人協議会は、婦人労働者の切実な労基法改悪反対の声に耳をかたむけざるをえなかったものの総評の全民労協路線容認に追随し政府・財界と真正面から対決せず労基法改悪反対の婦人労働者のたたかうエネルギーを結集できず婦人労働者のたたかいに大きな障害をもたらしたといえます。

正念場のたたかい

統一労組懇婦人連絡会は「労基法改悪反対、母性保護拡充」「実効ある雇用平等制定」の2つの制度要求をかかげ婦人労働者の先頭にたってたたかいをすすめました。

1984年2月に東西で「春闘討論集会」を開催し「正念場」のたたかいを各地域で旺盛に展開することを提起し、3月には「平等法闘争委員会」を中央に設置した。4月から7月まで6次にわたる全国統一行動をとりくみ、宣伝、署名、対政府交渉、国会傍聴、請願行動、自治体要請行動を展開しました。

そして、4月14日の中央決起集会は(1)政府案が国会に上程前に全国規模での集会で政府に迫る(2)既存のナショナルセンターがかかげない「労基法改悪反対・実効ある雇用平等制定」の要求を明確した集会で婦人労働者のたたかうエネルギーを結集する(3)広範な労働者・団体に呼びかけて幅広い集会とする。の3つの意義を明らかにし婦人労働者独自の集会としては史上最大の大集会となりました。

大阪では3月31日に20単産(組)1300名の広範な婦人を結集したが熱気ある総決起集会の開催、中央集会には目標を上回る515名の上京団を派遣しました。ひきつづく4月18日の「労基法改悪反対大阪連絡会」を中心とした集会実行委員会(統一労組懇も参加)主催の集会には1100名の参加のうち半数が男性するという画期的な取り組みをおこないました。

宣伝行動では、2万枚のビラを作成し6月9日大阪城公園で宣伝カーによる街頭宣伝をはじめ主要ターミナルでの駅頭宣伝をくりひろげた。6月26日衆議院本会議での主旨説明を皮切りに国会審議が開始されたが毎回傍聴団を派遣し果敢な国会闘争を展開した。衆議院社会労働委員会ではたった4日間で審議はうち切られ参議院に付託されたものの、101国会ではこうしたたたかいを反映し「法案」は8月4日に参議院本会議で継続審議となりました。大阪では101国会終了後ただちに行動を展開し「101国会を上回る運動を」をスローガンに職場・地域で参議院にむけた署名を開始し、国会招集前に101国会を上回る署名を集約した組織もでてきた。

102国会は「電電民営化法案」年金改悪など反動諸法案目白押しのなかでたたかわれた。大阪統一労組懇婦人連絡会は、1月18日から「定時・定点の目に見える行動を」を提起し各組織において毎週1回以上の行動が組織されていった。2月28日からは社会労働委員会の審議日(毎週木曜日)には毎回50名ちかい傍聴団を派遣し「安易に審議にはいるな、『均等法案』を撤回せよ」と要請行動を展開していった。そして、「労基法改悪反対、実効ある男女雇用平等法制定を求める2・23中央決起集会」「労働基準法改悪、労働者派遣事業法制定など労働法制の全面改悪に反対する3・23大阪集会」を大きく成功させ、実質審議が始まった4月4日からは毎週2回の社会労働委員会の審議日には毎回50名を越える傍聴団を派遣し、大阪の婦人労働者の総力を挙げてたたかった。

101国会では共産党を「排除」したものの「対案」をだし政府との対決姿勢を見せた社・公・民・社民連は、102国会では「対案」どころか修正案もださず、共産党の全面修正案にも反対し、審議促進に手を貸すなかで5月17日「均等法案」は成立した。

大阪のたたかいの特徴

(1) すべての面で史上最高のとりくみ

「均等法案」にたいするたたかいで署名は177108名の要求署名、187956名の請願署名の集約。労働婦人単独で1300名の集会。500名を越える中央集会への代表団派遣。週2回の国会傍聴などいずれの数字をとっても近来にない到達であり、署名は全国集約の4分の1を占めるに至りました。まさに大阪の婦人労働者のたたかうエネルギーを結集したといえます。

(2) 全国の牽引力となった力

なぜこうしたエネルギーを引き出すことができたのか。これは、大阪における婦人労働者のたたかいの歴史の積み重ねであるとともに、組織された婦人労働者−労働組合婦人部がまず中心にたたかったことにあります。大阪では全国に先駆けて「労基法改悪反対大阪連絡会」を結成していましたが、共同闘争と統一労組懇独自の運動の区別と関連を明確にし、この時期少なからずおこっていた「統一労組懇かくし」の傾向がありましたが、統一労組懇運動を目のみえるものとし大阪の婦人労働者をおおきく励ましました。

あわせて、常に大阪の位置と役割を明確にした行動を提起したことも重要であったと考えます。

(3) 学習と討論の重視

「均等法案」に対するたたかいは、新たな法制度を作る要求と制度改悪反対を同時に取り組むという過去に婦人労働者が経験したことのない運動であり、また、階級的潮流が全国闘争を組織するという面においても近年希に見るたたかいであったといえます。

さらに大阪ではすべての行動を全国に先駆けて展開したという特徴をも持っていました。
署名ひとつ作成するにも「要求署名」と「請願署名」はどうちがうのか「国会法」の学習から、次ぎは集めた署名の請願はどのようにするのか、「紹介議員」になってもらうため議員会館の入りかたまで調べました。これまで動員にいって「言われたとおり」に行動するのとは、わけがちがうのだから皆真剣です。行動を逸速くおこすには上の指令まちでは間に合いません。自ら学習し皆で討論していくことを情勢がもとめたのです。

たたかうナショナルセンター、ローカルセンター確立への展望

こうしたたたかいは大阪の婦人労働者をきたえました。そして要求から出発し婦人労働者の切実な要求が労働戦線問題と深くかかわっていることを実践のなかで学びました。

この大阪の婦人労働者のたたかいは今日まともな労働組合運動をめざす階級的ナショナルセンター・ローカルセンター確立へのおおきな力となって職場、地域にねざしていきました。堺、北河内、阪南に婦人連絡会が結成され、1987年には運営委員会(事務局長制)から幹事会(議長制をふくむ3役体制)へと体制を強化してきました。

地域婦人連絡会もその後淀川・東淀川統一労組懇で結成され4地域となっています。また、共同闘争として大阪春闘再構築懇談会レベルでの「春闘講座」「婦人のつどい」などにとりくみ階級的ナショナルセンター・ローカルセンター確立にむけ婦人連絡会の機能と活動を発展させてきました。

さらには、大阪の婦人運動の分野でも国際婦人デー、母親大会連絡会の成功に積極的にとりくんできました。

また、87大阪知事選挙においては労働者婦人連絡会を結成し「婦人労働者むけのビラ」の発行・配布をはじめ「代表者会議」の開催など労働婦人として積極的役割を果たしてきました。

全日本民間労働組合連合会(「連合」)が1987年11月に発足したもとで統一労組懇は88春闘を、「人間の尊厳をまもる春闘」・「階級的ナショナルセンター確立の土台を切り開く春闘」として位置付けたたかいを展開しました。そして「連合」の政策批判のとりくみも「4野党育児休業法案」批判と結合させ、まさに「要求」から階級的ナショナルセンター確立の課題の運動を展開してきました。

婦人連絡会は、「88春闘で婦人労働者の共同の前進」をめざし大阪春闘再構築懇談会レベルでの婦人労働者の取り組みとして2月11日「春闘婦人労働講座」を開催し80名を越える参加を勝ち取りました。

さらに婦人連絡会は、「はたらく婦人の大阪集会」が開催されていないなかで「学習・交流」の場である「はたらく婦人の大阪集会」の歴史と伝統を引き継ぎ大阪にはたらく100万婦人労働者の期待に応える運動を追及する立場から統一労組懇婦人連絡会・大教組・国労・民放労・全損保の各婦人部が事務局団体として6月25日に「春闘懇−大阪のはたらく婦人の集い」を開催し400名を越える婦人を結集し共同の輪が広がりました。

また、三洋パートをはじめ争議をたたかっている婦人労働者への支援・連帯行動をも重視し、おおくの労連組合が婦人部の学習会や集会に争議団を招き連帯と支援を強めてきました。こうした取り組みは、まさに労働者・労連組合を激励し支援するナショナルセンター・ローカルセンター機能の重要な柱であり、ローカルセンター的機能を発揮しローカルセンター確立の土台をつくりあげていきました。

結成される階級的ローカルセンターが大阪の婦人労働者のたたかう伝統を継承・発展させることのひとつに、12年間の婦人連絡会の成果と教訓を活かしてよりおおきな視野にたった運動の構築を願うものです。
 

1989年12月
全国連絡協結成総会発言

わたしは、階級的NC確立、たたかうまともな自治体労働組合の産別組織の結成むけて婦人労働者の民主的エネルギーをこの歴史的事業に結集し大きな力を発揮していく立場で討論に参加します。

全国連絡協の結成は全国の自治体にはたらく婦人労働者をおおいに励ましています。
とりわけ、「連合」・自治労路線の職場のなかで「連合」NOの立場で奮闘している婦人労働者にとっては、大きなは力となるでしょう。

北海道の北見市職では、労働戦線の討論をよびかけた市職労婦人部大会決定を、自治労・連合路線をとる市職労幹部による婦人部への交付金凍結、婦人部の書記局使用禁止、の暴挙と攻撃とたたかい婦人部の自主性、独自性の確保に奮闘しています。

全婦人組合員の大反対のなかで、毎日30分の勤務時間延長に合意した札幌市職労や育児休暇の全職種適用のたたかいで安易な決着で事実上婦人組合員の要求を引き下げた尼崎市職労など自治体職場における「連合」版の実態は婦人の権利も婦人組合員のたたかうエネルギーも抑圧されていることを明らかにしています。

しかし、階級的潮流、まともな労働組合運動をすすめている多くのところでは、地方「行革」に抗して婦人の権利が前進している実態が昨年自治体部会婦人連絡会と自治体懇婦人部会が合同で実施した権利・組織実態調査の結果にみごとにあらわれています。

1月の横浜集会で私達は、階級的産別組織において、いかに婦人の民主的エネルギーをたたかいのなかに活かしていくことができるのかの討論をふかめました。

婦人問題研究家の桜井絹江さんから産別会議時代の婦人の意気生き生きとしたたたかいの姿や飛躍的に前進した婦人の権利拡大の状況、そして何故このような運動を展開することができたのか婦人部の組織的位置付けの面を中心に報告がされました。その一部分を紹介すると産別会議の議長組合であり運動の中心部隊でもあった全逓が1946年の結成当時の規約では、他の専門部と同じ位置付けとしていた婦人部と青年部を1946年10月の規約改正では、婦人部と青年部を特殊な部門として他の専門部と同列視せず婦人部長を中央執行委員とするだけでなく、婦人部、青年部それぞれの部の推薦により各3名の中央執行委員の選出を規約で定めるなど各級機関に婦人部総体としての意見反映を保障する措置をとっていたのです。

2年たらずの産別会議のたたかいがGHQの指令で結成された総評にひきつがれるはずもなく、そして、その後もナショナルセンターレベルや自治体労働組合運動においても全国的に労働組合運動における婦人部の位置付けについて統一的な論議がおこなわれなかったなかで、現在のそれぞれの実態があるのもやむをえない事実です。

それは、歴史的たたかいの反映であり階級的NCや産別組織をもつことができなかった不幸であり、不十分な部分に率直に目をむけそれを変革していくことこそもとめられているのではないでしょうか。

しかし、こうした状況にあっても自治体にはたらく婦人労働者は住民と一番近い部署で仕事をしまさに、自治体労働者論を実践してきたのです。「均等法」のたたかいでは、国会史上まれにみる運動を展開し既存のナショナルセンターがたたかわないもとで全国統一闘争を組織し、要求に基づく実践のなかで労働戦線問題を婦人労働者のまえに明らかにしてきました。そして、国際婦人年のとりくみでは、自らの権利や地位向上だけでなく地域婦人の地位向上にむけて婦人部自治研活動という新たな分野をきりひらいてきました。

そして、戦後の民主的婦人運動の潮流である母親運動など幅広い婦人との連帯を脈々といきづかせ地域でその中心部隊として奮闘してきました。こうした婦人のたたかうエネルギーを恐れているのは政府・財界であることは、日経連弘報部の「左翼運動の実態」にも明らかです。 婦人のたたかうエネルギーを組織的に位置づければ婦人はその力をいかんなく発揮することができるでしょう。

戦前の評議会における婦人部論争の歴史的役割、戦後のGHQによる婦人部、青年部の二重権行使論の形式民主主義による婦人部・青年部の解体攻撃、そして今日の右翼的労働組合の状況。「連合」が発足して2年を経過しようとしている現在も連合が婦人部大会を開催したという話しは聞きません。

こうした歴史的事実は、日本の労働運動の階級的伝統を継承・発展させる勢力である我々の部隊こそが、そして、階級的NCで最大の組織になるであろう自治体労働組合が、婦人部問題に限っていえば実態からの出発ではなく、階級的にたたかう伝統を継承・発展させるべく歴史に学びとりわけ40年前の産別会議のたたかいにおける婦人部の位置付けをこの歴史的事業のなかでさらに発展させ画期的なものとなるようわたしたち婦人は、誰かに期待するのではなく階級的NC、産別組織の結成の事業に「参加ではなく参画していくのだ」という婦人労働者の心意気まず表明しておきます。

私たちは労働戦線の右傾化が進行してきた1980年から「労働戦線の右翼再編反対」そして国際婦人年の課題である「男女平等」の2つのスローガンをかかげて「自治体にはたらく婦人の全国交流集会」を開催しことし第10回をむかえます。そして昨年9、10月には毎日3名の婦人が八丁堀の事務所に詰め全国350をこえる自治体、婦人労働者数でいえば約25万人、影響をもつ住民数7000万人をこえる地域の自治体にはたらく婦人労働者の権利と組織の実態を把握することができました。

この行動は、自治体労働者の権利拡大だけでなく、地域労働者の権利拡大にむけて、また地域間格差解消にむけてなどさまざまな角度で今後の運動に活用していく重要な資料作りと、産別機能の発揮という点で実践的に大きな財産となりました。

私たちはこうしたこの間の運動の成果を全国連絡協議会運動に活かし明日の婦人部結成で組織体制を確立し2月14日に結成された大都市労働組合婦人連絡会や「連合」不参加の全国の自治体労働組合婦人部とも共同して階級的・民主的自治体産別結成を展望し婦人のたたかう民主的エネルギーで自治体労働組合運動の前進めざして奮闘する決意を表明し私の発言をおわります。

1989年4月
労基法改悪に反対実効ある雇用平等法を

(1989年刊「女たちの戦後史」)

1985年5月に成立した「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保を促進するための労働省関係法律の整備に関する法律」(いわゆる「均等法」と「労基法改悪」をセットした)に対する大阪の婦人労働者のたたかいは、法案提出以前からの労基法改悪のたくらみに反対するたたかいにはじまり、国会史上まれに見る女性たちのたたかいといわれた101、102国会闘争を項点に約8年間にわたって続けられた。この時期は労働戦線の右翼再編が進行し、全国の政治状況を先取りするといわれる大阪においても、労働運動の階級的潮流である統一労組懇と大阪地評など既存のローカルセンターとの違いが鮮明になった歴史的なたたかいが展開された時期であった。

【1】労基法改悪の軌跡と資本・財界の狙い

政府・自民党の「80年代戦略」はこの「労基法改悪」にも如実あらわれたといえる。そこでまず「均等法」とセットの「労基法改悪」の資本・財界の狙いを明らかにしなければならない。

運用による規制緩和から、法自体の改悪を求めた財界

労働基準法は1947年の制定以降一貫して「資本側の改悪要求」にさらされてきたといえる。公務員労働者からスト権を奪い、1948年には国家公務員法の改悪、1950年には地方公務員法の制定で国家公務員を労働法の大部分から適用除外、地方公務員も部分的に適用除外し労働基本法の適用において労働者の分断をおこなったのである。一方では施行規則の改悪で労働基準監督署への届け出義務をもなくし、労働者の権利取得情況を労働行政の監督外に押しやってしまうのである。そして、朝鮮戦争による「特需」をきっかけに「復活」した独占資本は、1951年には「労働基準法の改正に関する要望」(日経連)を政府に突き付け、1952年「時間外労働、深夜業の制限緩和」が強行された。まさに戦後第1次の反動攻勢期だったのである。

その後も1955年の日本生産性本部の発足、1969年の労働基準法研究会の設置、1970年東京商工会議所の「労働基準法に関する意見」、1970年代の相次ぐ「労基研報告」。さらには、事業所の増大とは逆行する労働基準監督官の削減、労働省通達による規制緩和など「運用による改悪」と労働基準法の全面改悪への準備が同時に着々と進められていくのである。

そして、戦後第2の反動攻勢期といわれた「戦後政治の総決算路線」の攻撃のなかで健保・年金の改悪、労働者派遣法の制定(職業安走法の改悪)等とともに、労基法が「均等法」とセットで改悪が強行されていくのである。

政府・財界の「労働法制改悪」の本音は1982年に出された関西経営者協会の「労働基準法の改正にかんする意見」に見事にあらわれていた。「意見書」は労働行政の規制緩和を求め、「労使自治」の強調などまさに労働戦線の右傾化を横に見ながら資本の意図を貫徹しょうとするものであった。

【2】労働戦線の右傾化と大阪地評婦人協議会の変遷

こうした政府・財界の攻撃に対し、「総評」が「労基法改悪反対」を掲げてたたかいをすすめたのは1978年の「労基研報告」に対するたたかいまでであったといえる。1970年代は自民党政治と独占資本がすすめてきた「高度経済成長政策」や日米安保条約に基づいた反動攻撃に対する労働者・国民との矛盾が激しくなり、政治革新のたたかいが前進し、大阪にも黒田革新府政が誕生した。婦人労働者のたたかいの分野においても1972年のはたらく婦人の大阪集会の統一などで総評大阪地評婦人協議会は婦人労働者運動のローカルセンターとしての一定の役割を果たしつつあった。

しかし、大阪総評や大阪同盟など右翼的潮流が、資本・財界と一体となった反共・差別・分断攻撃を集中させ、革新統一の破壊に狂奔した。このことは、婦人労働者のたたかいにもおおきく影響し、地評婦人協議会は1976年以降「ローカルセンター」としての積極的役割を放棄し、統一行動に徐々に背を向ける傾向を示しはじめた。この時期1975年とは、春闘連敗の幕開けの年でもあった。

【3】大阪統一労組懇婦人連絡会の発足と運動の展開

大阪統一労組懇婦人連絡会は、全国にさきがけて1976年8月、統一労組懇加盟労働組合を中心とした婦人労働者の交流の場として結成された(結成当時は婦人代表者会議)。大阪統一労組懇婦人連絡会の結成は、地評婦人協議会の「ローカルセンター機能の積極的役割放棄」のもとでまさしく大阪の婦人労働者の期待に応えるものとして歴史的第一歩をふみだしたのである。発足当初の運動は、1975年の育児休業法の制定をうけて官・民をとわず育児休暇要求のたたかいが新たな段階に入り(自治体職場では条例化の取り組み、民間職場での育児休暇要求の高まり、育児休業法の不充分な部分をどう改正させていくのか等)、75、76春闘が連敗し春闘敗北のドロ沼に入り込んでいくなかで、春闘段階での学習活動や宣伝活動、たたかいの交流などが活発に展開されていった。

 1978年11月労働基準法研究会報告(婦人労働者の労働基準のあり方)が出され、労働基準法の改悪の具体化が一層強化されてきた。1979年1月中央統一労組懇婦人連絡会が結成されたが、地方段階で婦人組織を結成しているのは大阪だけであった。80春闘において大阪統一労組懇婦人連絡会は「労基法改悪反対、真の男女平等法制定」の要求を掲げ、ワッペン2万枚、ステッカー1万枚を作成し、宣伝活動を重視した取りくみを展開し、あわせて「労基研報告に対する医学的反論」の冊子を作成し、学習活動も重視してきた。こうして6月には、民法協、労組、婦人団体の参加による「労基法改悪に反対し、真の男女平等法制定をめざす大阪連絡会」の結成へと運動は発展していった。そして、81年には大阪独自の「労働基準法改悪阻止、はたらく婦人の権利と地位の向上を要求する請願署名」の取り組みを展開し、5万名を集約した。

【4】実践のなかで労働戦線問題が見えて来た

労基法の改悪に反対するたたかいは、1983年以降まさに正念場をむかえた。1983年12月21日に公開された婦人少年問題審議会の中間報告では、総評をふくむ労働側委員が「男女平等をはかるため何らかの法律をつくる」として「妊娠・出産にかかる母性保護を除いてみなおす」ことに合意し、「女子保護規定の適用を受けた者と受けなかった者との問で、昇進・昇格にあたって取り扱いに差が生じる問題については、当面法律による一律規制の対象としない」との財界への屈服ぶりをみごとにみせつけたものとなり、労働者の大きな怒りをかった。こうした「労働側」の姿勢は、法案作成やその後のたたかいに大きな影響を与えた。1984年3月26日婦少審は「建議」をまとめ、4月19日労働省は「男女雇用平等法案要綱」を発表した。政策・制度要求は労働4団体共闘ですすめるとする総評は、全民労協、労働4団体の枠内のとりくみに終始した。

全民労協・労働4団体は1984年4月17日「合同対策合議」を設置し「雇用の全段階を禁止規定とする考え方を通すことは困難、現実的対応を取らざるを得ない」と労基法改悪を容認し、「均等法」とセットの労基法改悪の101国会成立を強く押し出した。そして、労働者の「男女雇用平等法案要綱」を「不満」として婦少審の審議を拒否したものの、わずか1週間とたたない4月25日には審議に応じた。

また、総評は83春闘で取り組んだ政府宛署名を、政府が法案を国会に上程し政府としての態度決定が終了した段階で提出し、5月26〜27日に予定していた総評・中立労連主催の「第29回はたらく婦人の中央集会」を6月1日の決起集会に切り替えたものの、総評の単独主催となり集会スローガンに労基法改悪反対は欠落していた。さらには、60人の特別婦人代議員を参加させた総評の臨時大会では、「労基法改悪反対を方針に掲げるべき」との発言に対し、真柄事務局長は「労基法に対して、これを反対あるいは是認という既存の概念なり、基準の枠組みのなかで雇用における男女平等を考えていこうとすると、運動の前途、実態にあわないものが出て来るのではないか」と答弁した。こうした婦人の要求とかけはなれた言動は、労働戦線の右翼再編が労働者に何をもたらすのかを婦人労働者のまえに明らかにした。

大阪においても、地評婦人協議会は、婦人労働者の切実な労基法改悪反対の声に耳をかたむけざるをえなかったものの、総評の全民労協路線容認に追随し、政府・財界と真正面から対決せず、労基法改悪反対の婦人労働者のたたかうエネルギーを結集できずに婦人労働者のたたかいに大きな障害をもたらしたといえる。

【5】正念場のたたかい

統一労組懇婦人連絡会は「労基法改悪反対、母性保護拡充」「実効ある雇用平等法制定」の2つの制度要求をかかげ婦人労働者の先頭にたってたたかいをすすめた。1984年は2月に東西で「春闘討論集会」を開催し、「正念場」のたたかいを各地域で旺盛に展開することを提起し、3月には「平等法闘争委員会」を中央に設置した。4月から7月まで6次にわたる全国統一行動をとりくみ、宣伝、署名、対政府交渉、国会傍聴、請願行動、自治体要請行動を展開した。

 そして、4月14日の中央決起集会は、(1)政府案が国会に上程前に全国規模での集会で政府に迫る、(2)既存のナショナルセンターがかかげない「労基法改悪反対・実効ある雇用平等法制定」の要求を明確にした集会で婦人労働者のたたかうエネルギーを結集する、(3)広範な労働者・団体に呼び掛けて幅広い集会とする、の3つの意義を明らかにし、婦人労働者独自の集会としては史上最大のとりくみともいえる大集合となった。

大阪ではこうした全国のたたかいに呼応して3月31日に婦人総決起集合、中央集会には500名の代表派遣の決定、ステッカー5万枚の作成、団体まわり、毎週の会議開催など精力的にとりくんだ。3・31集会は法案上程直後の行動となり、20単産(組)1300名の広範な婦人が参加し熱気ある集会となり、4月14日の中央集合にむけて大きな力を発揮する前段の集会となった。そして、中央集会には目標を上回る515名の上京団を派遣した。ひきつづく4月18日の「労基法改悪反対大阪連絡会」を中心とした集会実行委員会(統一労組懇も参加)主催の集会は、1100名の参加のうち半数が男性という画期的なものであった。

宣伝行動では2万枚のビラを作成して、6月9日に大阪城公園での宣伝カーによる街頭宣伝をはじめ、主要ターミナルでの駅頭宣伝をくりひろげた。6月26日衆議院本会議での主旨説明を皮切りに国会審議が開始されたが、毎回傍聴団を派遣して国会闘争を展開した。衆議院社会労働委員会ではたった4日間で審議はうちきられ、参議院に付託されたものの、「法案」はこうしたたたかいを反映して、8月4日に参議院本会議で継続審議となった。
大阪では101国会終了後ただちに行動を展開し、「101国会を上回る運動」をスローガンに職場・地域で参議院にむけた署名を開始し、国会招集前に101国会を上回る署名を集約した組織もでてきた。

102国会は「電電民営化法案」、年金改悪など反動諸法案目白押しのなかでたたかわれた。大阪統一労組懇婦人連絡会は、1月18日から「定時・定点の目に見える行動」を提起し各組織において毎週1回以上の行動が組織されていった。2月28日からは社会労働委員会の審議日(毎週木曜日)には毎回50名ちかい傍聴団を派遣し、「安易に審議にはいるな。『均等法案』を撤回せよ」と要請行動を展開していった。そして、「労基法改悪反対、実効ある男女雇用平等法制定を求める2・23中央決起集会」「労働基準法改悪、労働者派遣事業法制定など労働法制の全面改悪に反対する3・23大阪集合」を大きく成功させ、実質審議が始まった4月4日からは、毎週2回の社会労働委員会の審議日には毎回50名を越える傍聴団を派遣し、大阪の婦人労働者の総力を挙げてたたかった。

101国会では共産党を「排除」したものの、「対案」をだし政府との対決姿勢を見せた社・公・民・社民連は、102国会では「対案」どころか修正案もださず、共産党の全面修正案にも反対し、審議促進に手を貸すなかで、5月17日「均等法案」は成立した。

【6】大阪のたたかいの特徴

「均等法案」にたいするたたかいで、大阪では17万7108名の要求署名、18万7956名の請願署名の集約、労働婦人単独で1300名の集会、500名を越える中央集会への代表団派遣、週2回の国会傍聴などいずれの数字をとっても近来にない到達であった。署名は全国集約の4分の1を占めるに至り、まさに大阪の婦人労働者のたたかうエネルギーを結集した。

こうしたエネルギーを引き出すことができたのは、大阪における婦人労働者のたたかいの歴史の積み重ねであるとともに、組織された婦人労働者――労働組合婦人部がまず中心的にたたかったことにあるといえよう。そして、統一労組懇を中心に据えた共同闘争の発展が大きな力になった。大阪では全国に先がけて「労基法改悪反対大阪連絡会」を結成していたが、共同闘争と統一労組懇独自の運動の区別と関連を明確にし、この時期少なからずおこっていた「統一労組懇かくし」の運動に埋没せず、統一労組懇運動を目にみえるものとして、大阪の婦人労働者を大きく励ました。そして常に大阪の位置と役割を明確にした行動を提起した。

「均等法案」に対するたたかいは、「実効ある男女雇用平等法」という新たな法制度の要求と、労基法改悪という制度改悪反対を同時に取り組むという、過去に婦人労働者が経験したことのない運動であり、また、階級的潮流が全国闘争を組織するという面においても近年まれに見るたたかいであったといえよう。さらに大阪ではすべての行動を全国に先がけて展開したという特徴をも持っていた。それをなしえたのは学習と討論の力であったといえる。署名ひとつ作成するにも「要求署名」にしようか「請願署名」にするかから討議しなければならなかった。それなら「要求署名」と「請願署名」はどうちがうのか、「国会法」の学習からことははじまるというものであった。次は集めた署名の請願行動はどのようにするのか、「紹介議員」になってもらう議員訪問のため議員会館への入り方から訓練である。これまでのように動員にいって、「言われたとおり」行動するのとは、わけがちがうのだからみんな真剣だった。行動をいちはやくおこすために、指令まちでなく自ら学習し、皆で討論していくことを情勢がもとめたといえる。

こうしたたたかいは大阪の婦人労働者をきたえた。そして要求から出発するたたかいの発展のなかで、婦人労働者の切実な要求が労働戦線問題と深くかかわっていることを実践のなかで学んだのである。大阪の婦人労働者のたたかいは、今日まともな労働組合運動をめざす階級的ナショナルセンター、ローカルセンター確立の運動への大きな力となって職場、地域に根づいている。

1988年7月
育児休業制度を全ての職場から
特集/婦人労働者の権利を守る(大阪府職労)


(労働運動1988年7月号)

大阪府職労婦人部では、育児要求の性格をめぐって活溌な討論を展開してきました。討論の到達として、すべての婦人に共通する母性保護要求と子どもをもつ労働者固有の直接の要求にねざす育児要求では、異なる性格をもっており、それまで「はたらく婦人の権利」として一括して扱っていた母性保護要求と育児要求との整理が必要ではないか、ということになりました。

要求を具体化する中で

このことは、ただ単に論議だけで到達したものではありません。母性保護を妊娠・出産にかかわる「母体保護」の範囲にとどめず、「思春期から更年期を含む」女性の一生ととらえた府職労母性保護講師団を中心とした教育・学習活動の推進、権利行使の運動、三交替制勤務という状況から地域保育所では解決できない看護婦の育児要求解決のための病院職場の職場保育所闘争など、運動や実践が討論に大きな役割を果たしたといえます。
このように、要求の性格を明らかにしたことは、たたかいの方向をも明確にすることにつながりました。

育児要求は、婦人の労働権保障と子どもの健やかな発達を保障することであり、はたらく婦人たちの、その形態は、「保育所に預けてはたらきたい」「集団保育で育てたい」「一定の期間は母乳で育てたい」「おばあちゃんに預けてはたらく」などさまざまです。こうした婦人たちの育児形態の選択にもとづき、要求も、保育所行政の充実(保育所増設、保育時間の延長、保育内容の改善、保育料の値上げ反対など)、育児時間の期間と時間の延長、育児休暇制度の実現、職場保育所の設置など、具体的となり、たたかう相手が明らかになります。そして、要求が具体化し組合員にわがりやすくなることによって、はたらく婦人のたたかうエネルギーをより引き出せる条件がつくられることは明らかです。

企業内闘争と法制定闘争

こうして討論の到達点をふまえた企業内のたたかいの結果、(1)病院の院内保育所の設置(三交替勤務では地域の保育所の保育時間では預けられない、勤務実態にあわないとの現状から病院職場保育所の設置の運動をすすめ組合員の運営による共同保育所――府当局も財政負担している共助会運営の保育所を経て1978年には、府直営――保母も正職員化を勝ちとり、すべての病院職場で院内保育所を実現)、(2)育児時間の期間と時間の延長(1982年生後1年3ヵ月まで1日90分の実現)、(3)育児休業の全職種適用と一時金の不合理是正(全職種適用は育児欠勤制度として1987年4月実現、一時金の不合理是正は制度として解決しないものの、当局負担で互助会の給付として6月は5000円、12月は1万円の支給を1980年から実施)――を勝ちとってきました。

これら育児要求にかかわる企業内闘争の前進は、保育行政の責任は国と自治体にあるとして地域でのたたかいを推進したこと、社会的条件が完備しない状況下で労働権確保のための使用者責任を追及するものとして企業内闘争と法制度制定闘争の位置づけを明確にしたことが、婦人の統一した力を引き出すとともに、男性組合員を含めた府職労全体の理解と団結を勝ちとったことにあったといえます。

要求を堅持することの大切さ

地方「行革」や労基法の改悪など厳しい状況のもとでは、要求はなかなか実現しません。しかし、組合員の全体の合意でかかげられた要求は堅持しなければなりません。府職労では「育児休業の全職種適用」の要求を育児休業法制定以後一貫してかかげたたかってきました。そして、その時点、その時点での獲得目標を明らかにしながら、組合員の切実な要求の実現にむけたたたかいを構築してきました。府職労のたたかいの経過をみると、育児休業法制定による自治体職場での条例化闘争では「法」よりも職種・職場を拡大させ、その後のたたかいでは1986年に研究会(当局と組合代表による構成)を設置させ、他府県や府下市町村の実態を調査するなど、要求実現にむけ足がかりをきづいてきました。

一方、婦人部では1971年から取り組んだ妊産婦の権利点検(妊娠、出産にかかわるすべての権利の行使実態の個人点検を個々面接で実施)に、条例制定(1976年4月)後は育児休暇の項を加え、婦人組合員の要求集約と育児休業対象職種の育児休業制度活用状況の把握を行なってきました。

要求の発展は情勢切り開く

育児要求は労働者の労働権確保と子どもの健やかな発達を願うという2つの性格をもっており、そのことから「子看休暇」(子どもの看護のための休暇)の要求が、討論のなかからでてきていました。府職労の婦人部では、1978年に「要求討議月間」を設定し、要求の集約、要求の整理、要求実現の方向、要求の到達と今後の課題などで大運動を提起し、母親の要求であった「子看休暇」を「家族看護休暇」要求に発展させ、全婦人組合員、ひいては男性を含む全組合員のものとしてきました。

この運動においても府職労は、2年ごとに実施している婦人部の権利点検実態調査で、年次有給休暇が家族の看護のために行使されている実態を把握するなど、実態調査の活動を重視してとりくみました。そして、1981年に家族看護欠勤制度を実現させました。この制度は、1暦年1回30日、やむをえない場合さらに1回30日、配偶者や同居の父母、子、祖父母を対象に看護のための欠勤が認められるもので、男女職員ともに適用されるものです(その後のたたかいで1984年に1回目を40日に、1985年には対象を別居の父母・子にも拡大)。

こうした家族看護欠勤制度の実現は企業内闘争のレベルではあるものの、労働者の労働権確保が労働者の当たり前の要求であるとする基盤をつくりだしたといえます。また、全国的な婦人労働者のたたかいのなかで、1985年に制定された「均等法」に、育児休業制度の普及が明記されたことも、「育児休業の全職種適用」の運動に大きな影響をあたえました。

婦人部はこの機をとらえて、全婦人組合員による「育児休業の全職種適用、一時金の不合理是正」をもとめる署名行動を展開し、府当局に「緊急要求書」とともに提出しました。そして、1986年の秋季年末関争で「育児欠勤」というかたちではあったものの、全職種の育児休業を実現しました。内容は、先に実現した「家族看護欠勤制度」の枠内で実施するとしたもので、(1)現行の育児休業法適用以外の職種に適用、(2)1987年4月1日から実施、(3)産休に引き続き70日以内の継続した期間(当初の申請を短縮することは可能)、(4)給与は減額、一時金・期末手当は全額支給、勤勉手当は基準日6ヵ月以内の勤務時間に応じて計算、(5)昇給取り扱いは私事の事故欠勤と同様の扱い、(6)共済掛け金は本人負担、(7)代替については産休代替に準ずる取り扱い――などとなっています。

府県レベルで突破口開く

大阪府における「育児欠勤制度」は、私たち婦人労働者の育児休暇要求にてらしてみると、(1)選択制についてはひき続き保育所行政の充実を追求していかなければならないが、現状としで選択を保障させた、(2)現職復帰は育児休業法の条例化にあたってもそのことを厳守させており、この制度においても厳守させた、(3)有給については、給与は無給でなく減額措置であり、一時金も支給されるというものになっており、育児休業法より前進させた、(4)代替は産休代替と同様の扱いとするもので、これは看護婦・施設保母・福祉事務所のケースワーカー・栄養士などは正職員による代替、それ以外は非常勤による代替を意味し、大阪府における育児休業法適用者と同レベルを確保した。――など、今後、“産休に引き続く70日間”という期間の延長を追求していかなければならないものの、全体として大きな成果だといえます。そして、自治体職場では府県職・政令都市職での全職種拡大の突破口を切り開いたものとなりました(その後、神奈川県、愛知県、兵庫県、神戸市などで実現)。

この成果は、労働権確保という要求の視点と育児休業制度をより良いものにしていくという運動を統一的に追求してきた結果です。

統一労組懇のたたかいと結合

以上のように、大阪府における育児要求の到達は、育児時間の期間と時間の延長、院内保育所の設置、育児休業の職種拡大、育児欠勤制度の実施など、大きな前進を勝ちとってきました。しかし同時に、企業内闘争の限界も明らかであり、ひき続き企業内闘争の運動強化と保育所行政切り捨ての軍拡・臨調路線、大企業本位の岸府政に反対するたたかいを強めていかなければなりません。

「連合」が提起している育児休業法制定の要求が、私たち婦人労働者の要求を引き下げたものであることは、本号の川口論文でも明らかにされているところです。

大阪府職労は、統一労組懇が提起している「婦人のはたらく権利をまもるための『保育・福祉の充実』と『育児休暇』『老人施設など公的福祉の拡充』『看護休暇』の制度化を求める清願」署名を積極的にとりくむにあたって、(1)育児休暇要求の私たちの要求を明らかにする、(2)育児要求解決の基本である保育所行政充実を求める運動を強化する、(3)「連合」の本質を明らかにする、(4)法制化闘争を、未組織労働者を含むすべての労働者の権利拡大をはかるものとする、企業内で勝ちとった既得権をより強固なものにしていく、との位置づけでとりくむことを明らかにしています。

法制化闘争はすべての婦人労働者が要求で一致し、団結してたたかえるものでなくてはなりません。「連合」が要求を引き下げたり、要求を欠落させたりするのかの本質を、運動のなかで明らかにすることが求められています。

私たちは、婦人の労働権確保―家族的責任の解決のために、社会的条件の整備と育児休暇、家族看護休暇の実現めざして、統一労組懇の提起する法制化のたたかいを企業内のたたかいと結合させ、学習活動を重視し、討議資料を作成して署名活動を積極的に展開しています。

(たけなか みちこ・大阪府職労婦人部長、なかい たづこ・同副部長)

1987年8月
自治労婦人部大会での総括討論(徳島大会)

連合路線に反対し、たたかう婦人労働者の道を迷わずにすすみましょう

私は、総括討論に参加するにあたって、第32回自治労婦人部定期総会が、全国の自治体職場に働く47万婦人組合員の生活と権利を守り、地域住民の福祉の向上にむけ闘うという労働組合運動の原点にたった方針を確立し、全国の婦人労働者を励まし、自民党中曽根内閣の反動政策と対決する産別方針を決定することを強く望んでいるものであり、そのことは本日参加している全ての代議員、傍聴者、そして、全国の仲間たちの思いであり、期待であることをまず確認したいと思います。

そして、2日間の討論を通して、どこに一致点があり、共同して闘えるのかを確認し、自治労47万の婦人が団結して闘いを進めていく方針の確立が求められていると考えます。
今総会は自治労47万婦人組合員の意志を総結集する場であると同時に最高の決定機関です。

この場を、婦人労働者の意志集約の場とするのかそれとも“親組合の方針は決っているから”とか“婦人部は補助機関だから今さら何を決めても無力だ”“今からでは遅すぎる”として婦人部の自主性や独自性を自ら放棄することは、婦人労働者に対する背信行為だと言わざるを得ません。

昨日の兼田育記長あいさつを奇異に感じたのは私だけではない筈です。様々な意見や論議があったとしても、労働戦線問題は今大会の最重要課題であるという認識は一致をするところだと考えます。

自治労も本総会に資料として同封している労線特集号を全組合員に配布して討論を呼びかけ、7月の婦人部長会議においても、真剣な討論が行われた労働戦線問題に一言もふれない兼田書記長の真意はどこにあるのでしょうか。

一方では、政治意識が高まったと、婦人労働者を賛美し、他方で、婦人労働者総体としての組織である婦人部に対しては労戦問題など、論議しなくてよいとしているのではないでしょうか。

それを受けた形で、高橋副部長は昨日の答弁の中で、今総会は労働戦線問題を決める場でないと発言されました。この発言は、労働組合運動の中での婦人部組織の地位を自ら低めるものとして、到底容認できるものではありません。

今年はあの雨宮生糸工場で日本で初めて労働者がストライキに立ちあがって百年目を迎えます。

人間の尊厳を否定した過酷な労働条件にたちむかったのが婦人労働者であり、その闘いが今日の労働条件をつくりあげてきたことに確信を持つのは私だけではない筈です。歴史の積み重ね、労働者の闘いは、その時代の労働者の問題だけでなく、将来に大きな影響を与えることは明らかです。

国際婦人年の世界行動計画の指摘にもあるように婦人が政策決定の場に登場するのほ、何も議員や行政レベルだけでなく、労働組合の意志決定の場でも重要であることは言うまでもありません。私たちに求められているのは自治労方針の決定に際し、参加し見守るだけではなく参画し、婦人の意志を表明することではないでしょうか。

労働戦線をめぐる緊迫した今日の情勢のもと、本総会での結論がどれだけの意義と重さを持っているのか、私たち婦人労働者の未来を握るのが今総会の決定だと言っても過言ではないからです。

私は今定期総会の運動方針が自治労本部婦人部常任委員会として、“苦汁に満ちた提案”なのか、それとも“組合員の批判をそらすための整合性のないその場しのぎの方針”なのか判断に苦しみました。

労働戦線の問題で言えば、29頁では『労働戦線の統一にむけて自治労の基本方向に沿って全力をあげる』としています。自治労の基本方向とは総評方針を支持し、自治労が官公労部隊の旗振り役をするということであり、具体的には今秋に発足する全民労連連合への合流、1990年には総評を解体するという内容のものです。

この同盟主導の連合が、階級的な闘う労働組合でないことはこの2日間の討論で臨調、行革、民間における大合理化攻撃など具体的事実に基づいて、多くの代議員が指摘してきたところです。

さらには連合の憲法だと言われる「基本構想」においても日本の経済発展は、良好な労使関係の下で、オイルショックを乗りきったとしている点など、私たち婦人労働者にとって到底容認できるものではないことは全体が一致できる認識だと考えます。

とするならば、20頁の「労働戦線の右傾化を許さない」とする記述や、29頁6行目の「全民労協を軸とするのではなく」とする記述には大きな矛盾と乖離があります。自治労の方針は山口大会での“全民労協を全的統一の母体としない”という点から昨年の山形大会での“全民労協を全的統一の対象とする”と方針は転換してきているのです。そして5項目3課題についても、「基本的な運動上の課題」としていた昨年の山形大会の決定も今年7月8日総評大会を前にした県本部委員長・書記長会議では、「いくつかの課題を残しながらも全民労協の連合組織移行にあたって結着をみようとしている。不十分な点はあるがこれ以上『進路と役割』を修正することは不可能という総評の見解を自治労も同様の判断をする」と見切発車に合意を下したのです。

こうした自治労としての方針の変化とともに14頁や29頁で言う総評労働運動の階級的強化による資本と闘う全的統一の達成という婦人部方針の記述は、1990年の総評解体までのたった3年間の慰めのスローガンなのでしょうか。総評の真柄事務局長ほ今年5月15日付の自治労通信でこう言っています。「労働戦線統一問題は、もはや事の是非を論ずる段階ではなく、いかに実行していくかの段階にきている。論理的には2つの選択がありうる。その1つは、総評の運動の伝統を優先させ、それを守ることである。私はその選択は誤りだと思う。少数派として残った総評は影響力をもたない、少数派、孤立、全体の力量を分散、不幸な選択だと思う」とのべています。

こうした総評の方針の下で「総評の階級的強化」を追求するのならば、総評の解体反対を自治労婦人部の定期総会の意志として表明する。すなわち総会決定とすべきです。私はこのことでは全会一致が得られるものと確信をします。

 私は、総評・自治労運動の階級的な闘いの伝統を守り発展させるには戦後労働運動の闘いの経過を事実でもって明らかにし、そのことが、今総会の方針に生かされているのかを検証すべきであると考えます。

1950年、アメリカ占領軍の援肋で結成された総評も、「ニワトリの卵からアヒルがかえった」と言われたように、全面講和を掲げ、国際自由労連加盟を否定しました。

1952年の戦後の反動攻撃による占領下の諸法令の再検討をとのアメリカからの指令で、経済法規、労働組合法、労働基準法などの改悪攻撃に対し、総評は労基法改悪反対闘争委員会を設置し、4波にわたるストライキを行使し闘いました。総評婦人協25年史の作成には前婦人部長の寺田さんも参加されていますが、「25年史」はこの労基法改悪反対の闘いの時、婦人部組織が解体をされていたことは婦人労働者にとって不幸であったとしています。まさに、婦人労働者のエネルギーを引き出し、ナショナルセンターが制度改悪反対の先頭にたつことの重要性を指摘しています。この闘いは、その後の婦人の権利拡大、母性保護闘争の前進へとつながっていったのです。

あのアメリカのベトナム侵略戦争に対し、国際自由労連がアメリカの侵略を全面的に支持していた時、総評がアメリカのベトナム侵略反対を世界に呼びかけ、10・21国際反戦デーを提唱し、国際的平和運動に大きく頁献してきたこと、春闘についても、1956年春闘が闘われてきた時、同盟の前身である全労はこれに反対声明を出し、その後、総評が共闘を呼びかけても全労幹部はこれを拒否し、同盟独自の「賃闘」という名の独自の賃金闘争をすすめましたが、総評を中心とした国民春闘は大きく発展し、多くの成果をあげてきました。

1973年の年金ストも同盟はスト反対を表明しましたが、年金ストの成功により年金制度は大きく前進しました。

60年安保闘争、1974年のインフレ共闘が私たちの賃金要求の前進につながったのは時の政府を政治的に国民が大包囲したからです。

これらの事実が示しているのは、まさに、“大きいことはいいことだ”ではなく、階級的に闘うナショナルセンターが存在してこそ労働者・国民のたたかいが高揚し要求が前進するということです。これが闘いの歴史の教訓です。

ところがこの間、統一準備会の発足、基本構想と労働戦線の右翼再編が進行するなか、年金健保の改悪、労基法の改悪、国鉄の分割民営化、とりわけ国鉄分割民営化については、60年安保闘争の前段に闘われた三池闘争とくらべると総評のとった態度と今回のそれとに大きなへだたりがあったことは国労組合員のみならず、多くの総評傘下の組合員の実感ではなかったのではないでしょうか。労働者が必死にたたかったにもかかわらず、全民労協・労働4団体との共闘を重視したこの間の賃金闘争、健保・年金改悪反対、労基法改悪反対、国鉄の分割民営化反対闘争の到達点、結果を見れば、全民労協との共闘という段階から、合流へ向かうことの結果がもたらすものは火を見るよりも明らかです。

私は7月の婦人部長会議で「このまま、全民労協の側に行ってしまえば、組合員から今まで言ってきたことと違うと言われる。まさに総評・自治労方針が変ってしまうことになる。官民分断を恐れて、資本と闘っている仲間との分断になる方向は賛成できない」との栃木の発言や、「全民労協は敵が明らかでないし、反独占・反自民も明確でない。自治労は、私たちに“全的統一”か“小さな左派結集”かの二者択一をせまってきているが、全民労協は労働組合の原点を投げ捨てており、自民党と一緒ではないか」との茨城の発言、「5項目3課題が解決しないかぎり全的統一を急ぐべきでない」とする、広島・山形・兵庫・富山の発言など、婦人労働者の声に耳を傾けるべきだと本部常任委員会に強く申し入れるものです。

そしてこの2日間多くの代議員から地方「行革」攻撃に反対する闘いの発言が相次ぎました。婦人労働者は地方「行革」攻撃に抗して、婦人労働者の生活と権利を守り、地域住民の福祉の向上にむけ、職場・地域から果敢に闘い、厳しい情勢の下でも家族看護休暇、育児休業の全職種適用を前進させ、「合理化」をはねかえした闘いが報告されました。まさに婦人労働者は全国の自治体職場で闘っているのです。闘いに勝利したところ、引き続き闘っている単組、残念ながら後退を余儀なくされた組合でも、婦人は闘っているのです。
その闘いをより前進させるためにこそ、産別としての方針やナショナルセンターの闘う方向がもとめられており、企業内闘争やローカル闘争を前進させ励ます力になるからこそ、自治労婦人部の方針が重要なのです。

まさに職場で地域で闘っているからこそ、私たちは自治労婦人部の役割を追及しているのです。

最後にこのまま本部原案どおり方針が決定されるとするならば、総評・自治労の取ろうとしている官公労部会構想…連合とのブリッジは連合側が否定している。直接参加は選別排除の道である。というなかで、連合系官公労組織をつくっての間接参加…ITS方式というのが、その方向であると考えられるのではないでしょうか。総評解散を前提とした官公労部会構想は、自治労がナショナルセンターをもたないという不幸な道への一里塚であるという認識が必要なのではないでしょうか。

私は、連合系官公労部会には参加しない。自治労綱領にたちかえり、地方「行革」反対など、組合員の要求と団結を堅持する。そして総評の解体に反対という、誰もが一致する方針を確定することが、戦後労働運動の階級的伝統を発展させ、階級的ナショナルセンター確立の道であり、婦人労働者の生活と権利を守り自治労婦人部の団結強化の道であると確信します。不一致点を強調するのでなく、一致点で団結してこそたたかいは高揚するのです。代議員のみなさんが、まさに階級的意固地を投げ捨てず、方針決定に参加されることを期待し、私の総括討論を終ります。