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1975年4月
歴史・基本任務から解き明かす
婦人部強化の定石はこれだ

婦人だけにまかせるべきでないからこそ必要


(機関紙協会「宣伝研究」1975年4月号)

日本独特の組織形態として存在する婦人部ですが、労働組合運動の歴史のなかでどう位置づけられてきたのでしょうか。

労働運動の歴史は、資本主義体制が形成されていくなかで必然的に生じたものですが、日本でも19世紀後半から運動がおこってきています。1916年6月、「友愛会」に婦人部が設立され、はじめて婦人部という名称が使われています。「友愛会」の発足は、1912年7月ですから5年を経過して設立されています。もちろん、それまでにも日本ではじめてのストライキが婦人労働者によってたたかわれ、すでに婦人労働者の闘いは多くの経験をつんでいました。しかし、「友愛会」の発足規約においても「本会の正会員の資格は労働者に限る」とはいうものの、婦人を正会員とは認めていませんでした。1913年7月に女子を準会員として認めるという経過をたどるわけです。

 相互扶助、互助会的な要素のつよい「友愛会」も成長・脱皮し「日本労働総同盟」となり、1924年の大会では婦人部設置を決めています。総同盟の分裂後、1925年5月24日に「日本労働組合評議会」が結成され、10月には婦人部全国協議会の招集があり、労働組合婦人部がなぜ必要か、その役割などについて真剣な討議が展開されています。その代表的な意見を紹介しておきますと、

(イ) 婦人組合員の特殊要求を正しく組合に反映せしめ、さらにそれを男子との協同的行動に導かせるよう、婦人組合員の闘争水準を高めること
(ロ) 未組織婦人労働者に対し、その自覚を高めて組合に参加せしめること

 婦人を中心に論議されましたが大会直前の中央委員会では否決され、婦人部結成は次年度へ持ちこされています。しかし、婦人部は婦人の特殊要求を男子の一般要求に結びつけて男女の協力的行動を導きだす機関であって、婦人の問題を婦人のみに任せるべきでないからこそ必要なものなのでした。1928年「3・15」の大弾圧の嵐のなか、日本全体が冬の時代へ入り、婦人部についての論議もかき消されていきました。

戦後、民主化闘争のなかでも婦人部の結成はすすみ、東京都の教員組合で最初につくられています。1946年、全都女教員大会準備会を経て婦人部を結成します。これは、日教組の婦人部結成の原動力になりました。

1947年、2・1ゼネストの態勢づくりの中心的な役割を、青年・婦人の闘うエネルギーが果たしていました。これへの弾圧をはじめとして、アメリカ占領軍の占領政策が転換され、労働組合への敵視と弾圧がはじまります。1948年1月、GHQ労働課、スタンレー女史は「青年部や婦人部が自主的な立場をもつことは組合内の統一といいう基本原理を破壊することになるから将来廃止されるべきもの」と声明。12月には労働省が、労働規約及び協約に関する指導方針通牒をだして「青年部・婦人部が独自の規約をもち執行機関、決議機関を設けて行動することは組合の調和と統制を破壊する」と決めつけました。ここで2重権行使が問題となってくるわけです。これについてはあとで述べます。

これらの歴史的な経過をみてみますと、婦人部の役割や活動の強化・自主性・独自性を尊重する課題は労働組合の階級的、民主的強化と深く結びついています。

戦前の闘いは、労働運動が芽ばえ全国組織として一定の力をもちながら、右翼的な潮流と日本軍国主義が強化されていくなかでたたかわれ、戦後はサンフランシスコ体制下における朝鮮侵略戦争と結びついた日本軍国主義の復活強化の下で、労働組合の基本的な任務が問われていた時期に、婦人部の役割もまた、問われていました。その後、アメリカ追随の政策・高度成長政策のなかで婦人労働者の増大と労働者に対する搾取と「合理化」攻撃がつよめられます。労働組合も60年安保闘争の経験、70年安保のたたかいを経て、婦人労働者の要求が切実となってくるなかで婦人部組織が不十分ながらさまざまな形態をとりながら復活してきました。

規約にこれだけは欠かせない
「独自交渉権」は正当

1.組織形態と規約
●婦人協議会――運動を推進する機関で連合体組織で多く見られる。対策部長の総括のもとに一定の独自性をもつ
●婦人対策部――執行委員が担当する部長を通して専門委員会の設置、活動計画と方針を下部へながす
●婦人部――親組合に加入している婦人労働者が同時に婦人部員として組織され決定権執行権をもって独自の運動をする

大きく分けるとこの3つですが頭に青年がつく場合もあります。実状は、名称と実態はかなり複雑になってきており、明確に区別できなくなってきています。
規約は、単に形式的なものではなく、組織的範囲・民主的活動の保障を明記し婦人部活動の土台たりうるものであることが必要です。そのためには最低、次の3つのことが満たされることが不可欠です。

一、婦人部を、単に専門部の1つとしてでなく、婦人組合員全員を対象とする1組織として明記すること。
一、婦人部の目的、機関、構成、財政などのあり方を明記する。とくに機関は執行機関、議決機関などをあいまいにしないことが大切です。
一、公正、民主的な組織運営や組合員の活動を完全に保障することを明記する。

規約は、組織の中に対立や矛盾など、困難に突き当たったとき、いつもそこへ立ち返るものであり、解決の基礎です。また、運動の発展に応じて、規約も発展させていかねばなりません。

2.「独自交渉権なし」の暴論
婦人が自主的な運動をおしすすめようとすると、独自活動に対する批判がさまざまな方面から起こります。その筆頭は先にも述べた「親組合に交渉権があるから、婦人部にも独自交渉権があるのはおかしい」というものです。しかし労働組合全体の中にある切実な要求のうち、婦人の要求を実現するために、交渉権の発効形態の1つとして婦人部が交渉する、ということを考えるなら、この攻撃・批難は、まったく的外れであることがわかります。

3.要求の結集と運動の展開
要求の結集と組織化をどうすすめていくかという点で気づいたことをいくつか述べます。

1つは、若年層、中高年齢層のいずれか一方だけに重点が偏ることなく、それぞれ区別しながらも全体的に把握しながら要求を姐織化する必要があります。
2つ目に、調査活動をすすめる場合に、どのように活用し、どんな運動に役立たせるためにその調査を行うのかを、広く知らせることです。

「調査はよくやるが“こんな実態があります”という報告だけで終わり」という声が聞かれはしないでしょうか。調査結果を武器にして、具体的に要求を実現するたたかいをすすめることが大切です。例えば、健康調査でも、職場環境などを分析して医学的な裏付けもとり、組合として解決の方向を提起していくことが必要です。「肩コリの人が多い」式の調査結果発表に終わっていると、問題解決にはなりません。

3つ目に、職場から運動を展開していく場合、多くの人の要求があるからといって幹部が請け負い的なたたかいをすすめるのではなく、問題や要求を整理し、職場に返していくことが大切です。

例えば、「母性保護要求の1つとして更年期障害休暇を要求すべきだ」との声もあります。私はこの要求のしかたは誤りだと思っています。この発想は「若い人には生理休暇があるのに、中高年層は取れないので、かわりに…」式になっています。生理は病気ではありませんが、更年期障害は病気の1つです。ある日休めばそれでいい、という性格の問題ではなく、男女ともに長期にわたり、各人によっても差異があります。その特殊性と実態に応じた取り組みが必要です。

基本任務の遂行と要求実現の運動はどうかかわる?

基本的任務を3つあげると
(1) 婦人組合員のもっている切実な要求の実現のために、婦人部が先頭に立ってたたかう。
(2) その要求とたたかいを婦人だけでなく、労働組合全体の要求とたたかいに広げていく。
(3) 未組織の婦人労働者にたいして系統的働きかけをおこなう。
ということになると思います。

ところで要求を前進させていくためには、地域の母親と手を結んでいくとか、産業別に結びつきを広げていくなどの展望をもって活動しなければなりません。また、それらの要求を実現するためにも政治革新の課題にも積極的に取り組む必要があります。歴史的経過のなかでも明らかなように、「婦人部はなぜ必要か、基本的任務はなにか、どう運動を広げていくか」という論議が全体的になされる時期には、婦人の活動が発展・前進しています。この時期に、労組婦人部活動について職場で論議をまきおこしていきたいものです。(文責・辻)

当NakaiBlogでは、2006年7月7日に発行された「33年間の発言と退出 -1972年〜2005年 (非売品)」の内容すべてを掲載していきます。

中居多津子プロフィール

  • 1947年11月9日大阪市西成区に生まれる。
  • 大阪市天下茶屋小学校・中学校、工芸高校建築科を経て、大阪府企業局に勤務。
    1972年11月〜2005年9月まで府職労役員。
  • 2006年3月末日 大阪府を退職。
  • 2006年5月 大阪婦人労働者資料室を開設。

 


33年間の発言と退出 -1972年〜2005年

まえがき

人生の“宴会でいう中締め”は、50歳の時「50と25プラス5」の集いという形で行いました。

そのとき、今は亡き福井さんが「25年前、我が家でカアチャンと2人で説得して・・・・・・強引すぎたのかな・・・しかし貴女の25年の活動を見て安心しています。絶えず前向きで、そしてこれからは、じっくりと余裕をもって頑張ってください」と言っていただきました。

それから8年、定年より2年早い退職を決め、市民ネットワークの事務局長を引き受けた時、山田郁子さんからは「発言する場所が確保できるというのは大事なことだ」と言われました。

その言葉で思い出したのが、1998年、福井さん主宰のレボレストのセミナーで「女性のための団結と発言の経済学」と題するコリン・ボイルさん(オーストリア出身の当時帝塚山大学助教授)の話のなかに出てきた「発言と退出」という労働経済学の理論でした。その主旨は「与えられた労働条件に不満を持つ労働者達は、基本的に2つの選択肢を持っていると思われる。1つは退職―すなわち職場を“退出”し、どこか他の所でもっとよい仕事を探すことである。2つ目の選択肢は労働組合を組織し、団体交渉を行う―すなわち労働条件改善のため“発言”することである」として労働組合の役割、女性の労働組合への参加の歴史など興味深い内容でした。

労使関係だけでなく、どの分野においても「発言と退出」はつきまとうものです。この冊子に収めた「発言」の一方で、私も幾度かの「退出」を経験した33年間でした。

米田佐代子さんは歴史を「彼の物語 ―(history)」ではなく「herstory(彼女の物語)」にと提唱されています。

このような冊子は、大体において、本人の自己満足であって、作成過程に意味こそあれ、できあがった代物は他人様には、ほとんど価値が見出せないのが世間の相場と決まっています。「中居多津子の物語」として、思い出話のツマにでもしていただけたら幸いです。

2006年7月8日

中居  多津子