1989年3月 大阪統一労組懇20年誌「大阪の労働戦線と婦人労働運動」

33年間の発言と退出 - 1989年3月 大阪統一労組懇20年誌「大阪の労働戦線と婦人労働運動」

1989年3月 大阪統一労組懇20年誌「大阪の労働戦線と婦人労働運動」

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33年間の発言と退出
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webmaster 2011-5-13 15:21

1989年3月
おおさかの労働戦線と婦人労働運動
婦人代表者会議の結成


(大阪統一労組懇20年誌)

大阪の統一労組懇運動における婦人労働者の組織的運動は、全国にさきがけて1976年8月大阪国公婦人協の提起により統一労組懇加盟労組を中心とした婦人労働者の交流の場として「婦人代表者会議」として発足したのがそのはじまりです。

1976年という年は婦人労働者にとっては1975年の国際婦人年をうけ「男女平等」の世論が大きく高まり、労働組合婦人部の活動にも大きな影響をあたえました。

一方、労働組合運動全体では春闘が連敗のドロ沼に入り込んでいった時期であり、労働組合運動の流れがおおきく変わっていく時期にあったといえます。

大阪では黒田革新府政の第2期誕生をめぐって大阪総評や同盟など右翼的潮流が資本と一体となり反共・差別・分断攻撃を集中させ、婦人運動の分野においても、 国際婦人デー大阪集会、保育要求集会の分裂がひきおこされました。

大阪地評婦人協議会は1976年以降「ローカルセンター」としての積極的役割を放棄し始めるもとで大阪の婦人労働者の期待に応える組織として婦人代表者会議は活動の第一歩を踏み出しました。

発足当初は中央には統一労組懇の婦人部組織はなく大阪的課題はもとより全国的課題においても大阪独自で運動を展開させなければなりませんでした。

77・78春闘では春闘講座を開催し統一労組懇加盟以外の民間労組をも数多く結集した画期的なとりくみとなりました。

1978年11月労働基準法研究会報告(婦人労働者の労働基準のありかた)がだされ労働基準法の改悪の具体化が一層強化されてきた。1979年1月ようやく中央統一労組懇婦人連絡会が結成されたものの地方段階で婦人組織を結成しているのは大阪だけでした。

1980年の社・公合意は労働戦線の右傾化に拍車をかけ総評は、「安保条約容認・賃金自粛路線」を突き進んでいきます。

婦人労働者のたたかいの分野でも総評婦人局が日本母親大会から脱落し、「労基法改悪に反対しない」など婦人労働者の要求や願いに背をむけていきました。

大阪においても限定された団体とはいえ統一して開催されていた「はたらく婦人の大阪集会」も82年度を最後に開催されなくなりました。

80春闘において大阪統一労組懇婦人連絡会は「労基法改悪反対、真の男女平等法制定」の要求を掲げワッペン2万枚、ステッカー1万枚を作成し宣伝活動を重視した取り組を展開し、あわせて「労基研報告に対する医学的反論」の冊子を作成し学習活動も重視してきた。こうして6月には、民法協、労組、婦人団体の参加による「労基法改悪に反対し、真の男女平等法制定をめざす大阪連絡会」への結成と運動は発展していきました。

そして、81年には大阪独自の「労働基準法改悪阻止、はたらく婦人の権利と地位の向上を要求する請願署名」の取り組みを展開し5万名を集約しました。

労基法改悪反対、実効ある男女雇用平等法制定をめざすたたかい

1985年5月に成立した「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保を促進するための労働省関係法律の整備に関する法律」(いわゆる.「均等法」とセットの「労基法改悪」)に対する大阪の婦人労働者のたたかいは、国会史上希に見る女性達のたたかいといわれた101、102国会闘争を頂点に約8年間にわたるたたかいとなりました。この時期は労働戦線の右翼再編が進行し、全国の政治状況を先取りするといわれる大阪において労働運動の階級的潮流である統一労組懇婦人連絡会(当時代表者会議)と大阪地評など既存のローカルセンターとの違いが鮮明になった歴史的なたたかいとなりました。

1947年に制定された労働基準法は一貫して「資本側の改悪要求」にさらされてきました。
そして、戦後第2の反動攻勢期といわれた「戦後政治の総決算路線」の攻撃のなかで健保・年金の改悪、労働者派遣法の制定(職業安定法の改悪)等とともに労基法が「均等法」とセットで改悪が強行されていくのでした。

政府・財界の「労働法制改悪」の本音は1982年にだされた関西経営者協会の「労働基準法の改正にかんする意見」に見事にあらわれていました。「意見書」は労働行政の規制緩和を求め、「労使自治」の強調などまさに労働戦線の右傾化を横に見ながら資本の意図を貫徹しようとするものでした。

労働戦線問題が見えて来た

労基法の改悪は1983年以降まさに正念場のたたかいをむかえました。1983年12月21日に公開された婦少審審議の中間報告は総評をふくむ労働側委員が「男女平等をはかるため何等かの法律をつくる」として「妊娠・出産にかかる母性保護を除いてみなおす」ことに合意し「女子保護規定の適用をうけたものとうけなかった者のとの間で、昇進・昇格にあたって取り扱いに差が生じる問題については、当面法律による一律規制の対象としない」との財界への屈服ぶりをみごとにみせつけたものとなり労働者のおおきな怒りをかいました。
こうした「労働側」の姿勢は、法案作成やその後のたたかいにおおきな影響を与えました。

1984年3月26日婦少審は「建議」をまとめ4月19日労働省は「男女雇用平等法案要綱」を発表しました。政策・制度要求は労働4団体共闘ですすめるとする総評は全民労協、労働4団体の枠内のとりくみに終始しました。

全民労協・労働4団体は1984年4月17日「合同対策会議」を設置し「雇用の全段階を禁止規定とかる考え方を通すことは困難、現実的対応を取らざるを得ない」と労基法改悪を容認し「均等法」とセットの労基法改悪の101国会成立を強く押し出しました。

そして、労働省の「男女雇用平等法案要綱」を「不満」として婦少審の審議を拒否をしたもののわずか1週間とたたない4月25日には審議に応じました。

また、総評は83春闘で取り組んだ政府宛署名を政府が法案を国会に上程し政府としての態度決定が終了した段階で要求署名を提出するにいたり、5月26〜27日に予定していた総評・中立労連主催の「第29回はたらく婦人の中央集会」を6月1日の決起集会に切り替えたものの総評の単独主催となり集会スローガンに労基法改悪は欠落していました。

さらには、60人の特別婦人代議員を参加さした総評の臨時大会では、「労基法改悪反対を方針に掲げるべき」との発言に対し真柄事務局長は「労基法に対して、これを反対あるいは是認という既存の概念なり、基準の枠組みのなかで雇用における男女平等を考えていこうとすると運動の前途、実態にあわないものが出て来るのではないか」と答弁しました。
こうした婦人の要求とかけはられた言動は労働戦線の右翼再編が労働者に何をもたらすのかを婦人労働者のまえに明らかにしたといえます。

大阪においても、地評婦人協議会は、婦人労働者の切実な労基法改悪反対の声に耳をかたむけざるをえなかったものの総評の全民労協路線容認に追随し政府・財界と真正面から対決せず労基法改悪反対の婦人労働者のたたかうエネルギーを結集できず婦人労働者のたたかいに大きな障害をもたらしたといえます。

正念場のたたかい

統一労組懇婦人連絡会は「労基法改悪反対、母性保護拡充」「実効ある雇用平等制定」の2つの制度要求をかかげ婦人労働者の先頭にたってたたかいをすすめました。

1984年2月に東西で「春闘討論集会」を開催し「正念場」のたたかいを各地域で旺盛に展開することを提起し、3月には「平等法闘争委員会」を中央に設置した。4月から7月まで6次にわたる全国統一行動をとりくみ、宣伝、署名、対政府交渉、国会傍聴、請願行動、自治体要請行動を展開しました。

そして、4月14日の中央決起集会は(1)政府案が国会に上程前に全国規模での集会で政府に迫る(2)既存のナショナルセンターがかかげない「労基法改悪反対・実効ある雇用平等制定」の要求を明確した集会で婦人労働者のたたかうエネルギーを結集する(3)広範な労働者・団体に呼びかけて幅広い集会とする。の3つの意義を明らかにし婦人労働者独自の集会としては史上最大の大集会となりました。

大阪では3月31日に20単産(組)1300名の広範な婦人を結集したが熱気ある総決起集会の開催、中央集会には目標を上回る515名の上京団を派遣しました。ひきつづく4月18日の「労基法改悪反対大阪連絡会」を中心とした集会実行委員会(統一労組懇も参加)主催の集会には1100名の参加のうち半数が男性するという画期的な取り組みをおこないました。

宣伝行動では、2万枚のビラを作成し6月9日大阪城公園で宣伝カーによる街頭宣伝をはじめ主要ターミナルでの駅頭宣伝をくりひろげた。6月26日衆議院本会議での主旨説明を皮切りに国会審議が開始されたが毎回傍聴団を派遣し果敢な国会闘争を展開した。衆議院社会労働委員会ではたった4日間で審議はうち切られ参議院に付託されたものの、101国会ではこうしたたたかいを反映し「法案」は8月4日に参議院本会議で継続審議となりました。大阪では101国会終了後ただちに行動を展開し「101国会を上回る運動を」をスローガンに職場・地域で参議院にむけた署名を開始し、国会招集前に101国会を上回る署名を集約した組織もでてきた。

102国会は「電電民営化法案」年金改悪など反動諸法案目白押しのなかでたたかわれた。大阪統一労組懇婦人連絡会は、1月18日から「定時・定点の目に見える行動を」を提起し各組織において毎週1回以上の行動が組織されていった。2月28日からは社会労働委員会の審議日(毎週木曜日)には毎回50名ちかい傍聴団を派遣し「安易に審議にはいるな、『均等法案』を撤回せよ」と要請行動を展開していった。そして、「労基法改悪反対、実効ある男女雇用平等法制定を求める2・23中央決起集会」「労働基準法改悪、労働者派遣事業法制定など労働法制の全面改悪に反対する3・23大阪集会」を大きく成功させ、実質審議が始まった4月4日からは毎週2回の社会労働委員会の審議日には毎回50名を越える傍聴団を派遣し、大阪の婦人労働者の総力を挙げてたたかった。

101国会では共産党を「排除」したものの「対案」をだし政府との対決姿勢を見せた社・公・民・社民連は、102国会では「対案」どころか修正案もださず、共産党の全面修正案にも反対し、審議促進に手を貸すなかで5月17日「均等法案」は成立した。

大阪のたたかいの特徴

(1) すべての面で史上最高のとりくみ

「均等法案」にたいするたたかいで署名は177108名の要求署名、187956名の請願署名の集約。労働婦人単独で1300名の集会。500名を越える中央集会への代表団派遣。週2回の国会傍聴などいずれの数字をとっても近来にない到達であり、署名は全国集約の4分の1を占めるに至りました。まさに大阪の婦人労働者のたたかうエネルギーを結集したといえます。

(2) 全国の牽引力となった力

なぜこうしたエネルギーを引き出すことができたのか。これは、大阪における婦人労働者のたたかいの歴史の積み重ねであるとともに、組織された婦人労働者−労働組合婦人部がまず中心にたたかったことにあります。大阪では全国に先駆けて「労基法改悪反対大阪連絡会」を結成していましたが、共同闘争と統一労組懇独自の運動の区別と関連を明確にし、この時期少なからずおこっていた「統一労組懇かくし」の傾向がありましたが、統一労組懇運動を目のみえるものとし大阪の婦人労働者をおおきく励ましました。

あわせて、常に大阪の位置と役割を明確にした行動を提起したことも重要であったと考えます。

(3) 学習と討論の重視

「均等法案」に対するたたかいは、新たな法制度を作る要求と制度改悪反対を同時に取り組むという過去に婦人労働者が経験したことのない運動であり、また、階級的潮流が全国闘争を組織するという面においても近年希に見るたたかいであったといえます。

さらに大阪ではすべての行動を全国に先駆けて展開したという特徴をも持っていました。
署名ひとつ作成するにも「要求署名」と「請願署名」はどうちがうのか「国会法」の学習から、次ぎは集めた署名の請願はどのようにするのか、「紹介議員」になってもらうため議員会館の入りかたまで調べました。これまで動員にいって「言われたとおり」に行動するのとは、わけがちがうのだから皆真剣です。行動を逸速くおこすには上の指令まちでは間に合いません。自ら学習し皆で討論していくことを情勢がもとめたのです。

たたかうナショナルセンター、ローカルセンター確立への展望

こうしたたたかいは大阪の婦人労働者をきたえました。そして要求から出発し婦人労働者の切実な要求が労働戦線問題と深くかかわっていることを実践のなかで学びました。

この大阪の婦人労働者のたたかいは今日まともな労働組合運動をめざす階級的ナショナルセンター・ローカルセンター確立へのおおきな力となって職場、地域にねざしていきました。堺、北河内、阪南に婦人連絡会が結成され、1987年には運営委員会(事務局長制)から幹事会(議長制をふくむ3役体制)へと体制を強化してきました。

地域婦人連絡会もその後淀川・東淀川統一労組懇で結成され4地域となっています。また、共同闘争として大阪春闘再構築懇談会レベルでの「春闘講座」「婦人のつどい」などにとりくみ階級的ナショナルセンター・ローカルセンター確立にむけ婦人連絡会の機能と活動を発展させてきました。

さらには、大阪の婦人運動の分野でも国際婦人デー、母親大会連絡会の成功に積極的にとりくんできました。

また、87大阪知事選挙においては労働者婦人連絡会を結成し「婦人労働者むけのビラ」の発行・配布をはじめ「代表者会議」の開催など労働婦人として積極的役割を果たしてきました。

全日本民間労働組合連合会(「連合」)が1987年11月に発足したもとで統一労組懇は88春闘を、「人間の尊厳をまもる春闘」・「階級的ナショナルセンター確立の土台を切り開く春闘」として位置付けたたかいを展開しました。そして「連合」の政策批判のとりくみも「4野党育児休業法案」批判と結合させ、まさに「要求」から階級的ナショナルセンター確立の課題の運動を展開してきました。

婦人連絡会は、「88春闘で婦人労働者の共同の前進」をめざし大阪春闘再構築懇談会レベルでの婦人労働者の取り組みとして2月11日「春闘婦人労働講座」を開催し80名を越える参加を勝ち取りました。

さらに婦人連絡会は、「はたらく婦人の大阪集会」が開催されていないなかで「学習・交流」の場である「はたらく婦人の大阪集会」の歴史と伝統を引き継ぎ大阪にはたらく100万婦人労働者の期待に応える運動を追及する立場から統一労組懇婦人連絡会・大教組・国労・民放労・全損保の各婦人部が事務局団体として6月25日に「春闘懇−大阪のはたらく婦人の集い」を開催し400名を越える婦人を結集し共同の輪が広がりました。

また、三洋パートをはじめ争議をたたかっている婦人労働者への支援・連帯行動をも重視し、おおくの労連組合が婦人部の学習会や集会に争議団を招き連帯と支援を強めてきました。こうした取り組みは、まさに労働者・労連組合を激励し支援するナショナルセンター・ローカルセンター機能の重要な柱であり、ローカルセンター的機能を発揮しローカルセンター確立の土台をつくりあげていきました。

結成される階級的ローカルセンターが大阪の婦人労働者のたたかう伝統を継承・発展させることのひとつに、12年間の婦人連絡会の成果と教訓を活かしてよりおおきな視野にたった運動の構築を願うものです。
 

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