2002年5月 戦後女性史年表〈たたかってきた日々から〉

33年間の発言と退出 - 2002年5月 戦後女性史年表〈たたかってきた日々から〉

2002年5月 戦後女性史年表〈たたかってきた日々から〉

カテゴリ : 
33年間の発言と退出
執筆 : 
webmaster 2011-6-14 15:36

2002年5月
戦後女性史年表
〈たたかってきた日々から〉

中居 多津子(大阪自治労連副委員長)

1975年は到達と出発の年

1975年はアメリカがベトナム戦争で敗北し、主要先進国首脳会議がはじまりアメリカの世界戦略の方向転換が余儀なくされた年であった。他方で国連の国際婦人年、メキシコ会議、世界行動計画の策定と国際的婦人運動の新たな胎動への始まりの年でもあった。

世界行動計画に明記された、国際的婦人運動の到達と今後の課題が自治体労働運動の女性の分野に与えた影響は多大なものがあったといえる。

世界行動計画は女性の地位向上にとって国の施策だけでなく自治体行政が重要な役割を果たす事を指摘したのである。自治体労働組合における自治研究活動は仕事から出発することから職能別研究が主体であり、保育、健康、食料、学校給食等女性に関わる要求も分野毎の運動に終わっていた。それが女性の地位向上として教育、健康、社会参加やマスコミ、住居、環境などあらゆる分野がトータルで女性の地位向上の課題として提起されたのである。これを婦人部自治研の視点として捉えたいくつかの自治体労組婦人部の取り組みが自治体労働運動における女性労働者の新たな発展を作り出したといっても過言ではありません。

もう1つの出発

自治体労働運動における女性労働者の権利拡大は、60年代後半から70年代にかけての革新自治体の建設と共に大きく前進した。

日本の組織形態である企業別労働組合は、女性労働者のたたかいにおいても、官民を問わず他の経験に学び、触発されての追いつけ、追い越せ運動の域をでず、ナショナルセンター、産別としての法改正、制度改正に運動を結実さしていくうえで、多くの弱点をかかえていた。

その典型が総評・自治労の特定政党支持路線であり、60年代から論議が進められていた、「育児休暇制度」要求についても、国会闘争は社会党を通じてしかおこなわれず、極端な場合日教組と自治労での意見の違いの調整もないままそれぞれの組織内議員が立法提案をおこない、審議未了廃案を繰り返していたのである。

こうした労働者側の運動の弱点を利用したかのように、自民党議員による議員立法で公務員の「看護婦、保母、教員」の3職種に限定した『育児休業法』が1975年国会を通過したのである。

政府提案でなく、議員立法で提案された背景は、いくつか考えられるが第1は、日本が国際婦人年のメキシコ会議に参加する上で国際社会にアピールするために。2つ目は政府提案の場合他の法制度との整合性など法制局での検討等に時間がかかる。第3は2との関連で「公務員制度」のなかにこれまでになかった『休業』という概念を持ち込み、公務員労働者の権利拡大に歯止めをかけることなどがあげられる。(ちなみに1972年制定の勤労婦人福祉法では『休暇』―均等法制定で廃止)

休暇でもなく休職でもない、ましてや欠勤でもないのに全くの無給、それ以上に勤務期間に応じて支給される一時金が6月1日、12月1日等の基準日に「育児休業」を取得すれば一時金算定対象期間に100パーセント勤務していても、一時金はゼロという公務員賃金制度では「組合専従休職」と「未帰還、不明職員」だけに適用されていた「在職しているが一時金を支給しない」部類に組み入れられるという賃金制度上の不合理を生み出しました。

この不合理が是正されるのは、4半世紀以上経過した2000年1月である。しかしこの『休業』という概念が作り出した無給・一時金の不合理は回復しがたい女性の生涯賃金に多大な損害を与えたばかりでなく、それに続く介護休業など大きな影響を与えた。

たたかいを進めていく中で様々な弱点が存在することは避けられないが、新たな制度の導入が孕んでいる危険性を見過ごすとたたかいの再構築に多大なエネルギーを必要とするのである。「3職種育児休業法」が作り出した一時金の不合理を成立時点から指摘していたのは、大阪府職労などわずかであり、この課題が産別、ナショナルセンター課題となるのは、全労連、自治労連結成後のそれも1990年代後半になってからとなる。

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