(労働運動1985年3月号)
国連婦人の10年最終年をむかえ、労働組合婦人部活動の分野においてもこの10年間の運動の到達と今後の課題を明らかにすることが――たとえば大きな前進を示した労基法、雇用平等法を中心にしたたたかいについても、――必要なのではないでしょうか。
この10年間の婦人労働者のたたかいが、(1)オイルショックからはじまった高度経済成長の破綻、(2)低成長下での利潤拡大をめざした「合理化」、OA・ME化の進行、(3)日米安保体制強化の下での軍拡臨調路線の進行、(4)春闘10連敗と労働戦線の右翼再編が進行する下で婦人労働者の増大と状態の変化など(別掲 山田論文)と深くかかわりながらも、「平等・発展・平和」をかかげた国連婦人の10年のなかでの活動であったことが重要な意味をもっていたと考えます。
ここではこうした状況を背景として生れた大阪統一労組懇婦人連絡会のとりくみと、自治体にはたらく婦人の全国交流集会の経過にふれながら、全国的課題やたたかいにたいする地域・産業別闘争のあり方、運動のなかで個々のたたかいや要求がどのように前進してきたかを明らかにしていきたいと考えます。
大阪統一労組懇代表者会議は、1976年の8月全国に先がけて統一労組懇運動における婦人労働者の運動推進の場として発足しました。
この時期婦人労働者の要求は様ざまな形で発展してきており、たとえば育児休暇要求も育児休業法の制定をうけてたたかいも新たな段階(自治体職場では条例化のたたかい、育児休業法の不十分な部分の改正要求など)に入りました。
また、一方では、1971年の大阪府知事選挙では社共が統一し、大阪地評婦人協議会も民主化がすすむなかで1972年には、はたらく婦人の大阪集会が7年ぶりに統一するなど地評婦人協が婦人労働者のたたかいで、ローカルセンターとして一定の役割を果たしつつありました。
しかし、1975年の知事選挙で革新統一から社会党が脱落し、地評もそれに追随しました。さらに地評は婦人協役員選出に介入し、婦人協の革新統一を指向する方向を否定するなど、地評婦人協も大阪の婦人労働者の期待に応える状況ではありませんでした。
全国的にも既存のナショナルセンターが指導する春闘が75年、76年と連敗し、春闘10連敗のドロ沼に入りこんでいった時期でもあったわけです。
こうしたなかで大阪統一労組懇婦人代表者会議は、大阪の婦人労働者の期待に応えるものとして第一歩を踏みだしました。
婦人代表者会議発足後はじめての77年春闘のとりくみは、2月1日に政府がやっと発表した「婦人の十年国内行動計画」にたいする運動課題と結合させたものとなり、2月11日には100名を超える参加で「77春闘勝利、統一戦線促進、婦人の権利拡大」――婦人労働講座」(国内行動計画、婦人の賃金、母性保護の3つの課題)を成功させました。
この講座には統一労組懇加盟以外の労組、とりわけ民間の参加が数多く、画期的なとりくみとなりました。
78年の春闘学習会は3回の連続開催となり、参加者も200名を超えるものとなりました。
この2年間の学習活動のとりくみを基礎に、1978年11月にだされた「労働基準法研究会――女子関係報告」にたいしても、婦人代表者会議は「労基研報告に対する医学的反論」を小冊子にまとめ、79春闘では職場での学習会活動を重視し、80春闘では「労基法改悪反対、真の男女平等法制定」のワッペン2万、ステッカー1万を作成し、宣伝行動を重視してきました。
こうした統一労組懇運動がすすむなかで、80年6月には民法協、労働組合、婦人団体の参加による「労働基準法の改悪に反対し、真の男女平等法制定をめざす大阪連絡会」への結成と運動も発展していきます。
連絡会としての“はたらく婦人の悩み110番”活動、大阪統一労組懇代表者会議独自での81年の「労働基準法改憲阻止、はたらく婦人の権利と地位の向上を要求する請願署名」のとりくみ(5万名を集約)などを展開してきました。
このように全国的な運動の提起がなされていないなかにあっても、労働組合運動の右傾化がすすむなかで、階級的・民主的な運動の提起は婦人労働者のなかで大きく広がる条件をもっていることを明らかにしました。
同時に、婦人労働者の要求に応えて、組織された部分が何をなすべきかで、模索しながらも行動していく「上まちにならない気がまえ」をつくりあげていくことができました。
そして“はたらく婦人の悩み110番”活動も相談内容のほとんどがパートの実態であったことから、小冊子の発行、宣伝をつよめるなかで、全国に先がけて労働省がパート・バンクを設置するなど具体的に行政をうごかす力にもあらわれました。
大阪統一労組懇婦人代表者会議(81年2月に婦人連絡会に名称変更)10年間の前半は、大阪独自で運動をするという模索の段階であったものの、この間の活動はその後の統一労組懇婦人連絡会の発足のなかでの全国的なたたかいに大きく実をむすんでいく貴重な活動となりました。
自治体にはたらく婦人の全国交流集会は今年も6月22日(全体会は長崎市)、23日(分科会時香焼町)での開催を決定しています。
1980年8月に第1回を開催し、5周年をむかえることになりました。
全国交流集会は、労働戦線の右翼再編論議がすすみ、自治労が産別機能を喪失してきており婦人労働者の切実な要求の実現や新たな要求(家族看護休暇、扶養認定の男女差別解消など)にたいする政策提起もされないなど有効な産業別闘争を組織しでおらず、階級的・民主的な産業別労働組合運動の確立が婦人労働者の立場からも必要になっていました。
そして1979年に国連で採択された「婦人にたいするあらゆる形態の差別撤廃条約」も中間年のコペンハーゲン会議での署名式での日本政府の態度をめぐって関心も高まってきていました。
婦人の声におされて日本政府もしぶしぶ署名するなかで、「差別撤廃条約の早期完全批准」――雇用平等法制定の課題も婦人労働者のなかに浸透していきはじめた時期でもありました。
全国交流集会はこうした情勢をうけて、男女平等と労働戦線問題の課題をつねに集会のなかに位置づけてとりくまれてきました。
第1回は実行委員会形式で開催されましたが、その場で自治体懇(ナショナルセンター問題を考える自治体関係懇談会)婦人部会が発足し、年1回の交流集会にとどまらない体制が確立したこともその後の活動に大きな影響を与えました。
交流集会は第1回の400名参加から毎年増え第4回の横浜集会、第5回の岩手集会では500名を超える規模となってきました。
また第3回愛媛集会からは地元実行委員会が結成される方式となり、開催地における準備活動のなかで婦人部運動が前進をするという大きな成果も生まれてきています。
交流集会は年1回の全国的な交流、学習の場にとどまらず、第3回集会の討論を基礎に「家族看護休暇要求の到達点とたたかいの方向」「扶養認定の男女差別解消のたたかいの方向」を明らかにし、全国的な運動をひろげていきました。
1983年1月8日には「労基法改悪阻止、実効ある雇用平等法制定をめざした討論集会」を開催し、
(1) 労基法改悪反対闘争は、改悪反対を明確にし、あわせて自治体労働者の職場実態から、深夜業、危険有害業務についても新たな規制をおこなわせるなどの積極的な改正要求を組織する。
(2) 実効ある雇用平等法制定にむけて、職場に現存する男女差別をなくすため、どんな規制や整備が必婁なのかの基本や原則を明らかにする。
(3) 未組織労働者や地域の婦人と共同してたたかいをすすめていく。
とする3つの観点を確認しました。
そして1983年の横浜集会では実効ある男女平等法制定のための私たちの統一要求(5項目)を確認しました。
こうした活動は全国の自治体にはたらく婦人労働者をはげまし、家族看護休暇要求の前進、労基法改悪反対・実効ある男女雇用平等法制定のたたかいの広がりに大きな力を発揮していきました。
国連婦人の10年の中間年に発足した自治体にはたらく婦人の全国交流集会の5年間の足どりは、要求前進やたたかいの発展にむけて個々の職場での徹底した要求討議と職場を基礎にした生産点でのたたかいと、全国的に連鎖していく到達闘争での果たす役割、さらには制度的要求のたたかいでの全国統一闘争の重要性をあらためて、実践的に明らかにしてきたのではないでしょうか。
2つの分野での活動の経過は、1地域、1産業のたたかいが全国的な統一闘争との結合でより大きく前進していくことを明らかにしました。
こうしたたたかいに婦人の民主的エネルギーをどう引き出してきたのかが重要だと考えます。
「合理化」をはじめとしたさまざまな攻撃が具体的、直接的にあらわれる生産点――職場でのたたかいと関連なしに、婦人のたたかうエネルギーは結集できないし、運動の発展もありえません。
職場での日常的な婦人の要求と労基法改悪反対、実効ある雇用平等法の制定という2つの制度課題との〝間″をどううめることができたのかが問われるところです。
1979年に発足した統一労組懇婦人連絡会が1982年の4・3中央行動をきっかけに地方婦人連絡会への結成となり、1984年の4・14中央総決起集会、101国会では既存のナショナルセンターを上回るとりくみを展開できたことは、地域、産業別での全国統一闘争の有機的結合(方針提起だけでないお互いの還流)の前進であったと考えます。
政府・財界の攻撃がつよまるなかでこうしたたたかいの経験をさらに発展させることなしに私たちの要求の前進がありえないことは明らかです。
そうした点から見るならば、統一労組懇婦人連絡会を中心とした私たちのこの間のたたかいが、これまでの〝政策的優位〝から、組織、実践面においてもその優位性を発揮できたことに確信をもつぺきでしょう。
あわせて、組織的にも実践的にもさらに運動を発展させるには何が必要かを、それぞれが考え、行動していくことがもとめられているのではないでしょうか。
大阪統一労組懇婦人連絡会は」101国会終了後の8月から、地域宣伝、団体申し入れ、団地作戦など多様な行動を展開し、年内に20万近い署名を集約し、1985年に入り、1月から毎週火曜日と金曜日、府下十数ヵ所の主要ターミナルで請願署名を刷り込んだ料金受取人払いのハガキ形式のビラ配布行動を展開しています。
これも2年間のビラまき、街頭署名などの活動をやってきたなかで、寒い冬の時期1番有効な宣伝・署名活動をというなかで婦人の創意が生みだした行動です。
いま、大阪では、“101国会を上回る取り組みを”をスローガンに活動をすすめています。
「このチャンスをのがせば法制定の機運をのがす」という声が聞かれます。
これは、政府の「機会均等法案」が労基法改悪とセットとなっている点、その労基法改悪が、政府・財界の労働基準法の全面改悪や労働者派遣事業を大幅に緩和、容認しようとする職業安定法の改悪、さらには無資格者の導入をねらいとする看護制度の改悪と結びついており、労働法制への全面的改悪への突破口であることをあまりにも軽視し、婦人労働者の実態を無視している点で批判しなければなりません。
しかし、労働運動の側にもこうした潮流を許す状況がなかったか問われなければならないでしょう。
私たちは平等実現の要求を日本における婦人労働者のたたかいの到達点――要求の発展であるととらえると同時に、国際婦人年の設定や世界行動計画の策定、差別撤廃条約の採択など平等・発展・平和をめざした国連婦人の10年のとりくみが国際的婦人運動の1つの到達点であり、私たち日本の婦人労働者のたたかいも大きくかかわってきたのだとする国際的視野と確信をもった運動の姿勢が必要なのではないでしょうか。
また、今日までの労働組合運動の弱点――婦人労働者の権利拡大の面においても企業内問争の枠を脱しきれず、さまざまな企業や産業で勝ちとってきた権利を全体として法制度改正のたたかいに発展させることなく、企業間、産業別間の格差を放置してきた――をどう克服し今後のたたかいをどう構築していくのかが問われているのではないでしょうか。
要求は行動のなかで確信となり発展していくのだという視点での運動展開と、個別のたたかいから全国統一闘争へ、統一闘争の前進にむけて個別闘争強化の重要性が強調されているとき、それぞれの地域、産業が今日のたたかいのなかでの位置と役割をあらためて見つめなおし、たたかいを組織していくことがもとめられているのではないでしょうか。