1992年9月 大阪労連婦人部事務局長退任のあいさつ

33年間の発言と退出 - 1992年9月 大阪労連婦人部事務局長退任のあいさつ

1992年9月 大阪労連婦人部事務局長退任のあいさつ

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33年間の発言と退出
執筆 : 
webmaster 2011-5-19 15:51

1992年9月
大阪労連婦人部事務局長退任のあいさつ

事務局長を退任することとしました。1972年に府職労の婦人部長に就任して、20年間労働組合運動のなかではとりわけ女性の場合何事も続けることがひとつの力となり得るとの思いから、様々な任務や役割を続けてきましたので、退任のあいさつをするのは大阪レベルでは今回が初めてです。1973年に当時の自治労の大阪府本部の婦人部長と大阪総評婦人協議会常任委員になってから、府的な場での労働組合婦人部運動や婦人運動にたづさわってきましたが、今回大阪労連の役を降りることで府的な場での運動からしりぞき、産別と府職労の運動に専念することにしました。黒田革新府政の誕生、はたらく婦人の大阪集会の統一、全国に先駆けて大阪で統一労組懇婦人連絡会を結成したこと、国際婦人年のとりくみ、労基法改悪反対・均等法の取り組みでの東京への単身赴任、大阪労連の結成など様々なたたかいや運動を経験してきました。

そのなかで、この20年間、私の行動の基本は、婦人労働者の要求実現のため何が必要かであり、婦人労働者の利益を擁護すること、組合員の立場で物事にあたること、そして、自らも労働者として要求を常にもって運動に対処するということでた。そして、私は自らの発言は他の役員や幹部に責任をもつものではなく、組合員に対して責任をもつべきとの信念でことにあたってきました。ですから、論争もしました、私はいろんな考えの人が集まって要求で団結する労働組合の基本は討論によってこそ前進が図られると考えています。仲良しクラブ的運営や、ことなかれ主義では、相互批判もなければ自己批判もありません。また、私は誰かが決めた結論に参加するだけではなく、自分の頭で考えみんなで討論をする参画の立場を追及してきました。

また、わからない事は人に聞く、聞くのが厭だったら学習する、そして、オールマイティの人間はいないのだから、自分の不得手の分野を自覚し、みんなの知恵を借りて運動や政策的方針を確立し、婦人部運動の前進を図ろうとしました。この最たるものが先程もふれた労基法改悪反対、実効ある男女雇用平等法策定の運動で5才の子どもをおいて東京に2カ月あまりの単身赴任でした。これも中央で要請されたわけでなく、大阪のたたかいになにが必要か、要求の前進にむけ何をしなければならないかで、仲間と相談し、全国的たたかいの高揚が必要だとのおもいから、府職労に掛け合って、府職労での財政負担を認めさせ、押し掛け女房的に東京にでかけました、プライドの高い東京の人には何しにきたんやとの対応もされました、当時自治体労働組合は階級的中央単産をもっていませんでしたから、援助してくれる人もいません、統一労組懇総会での婦人部の位置付けに関する私の発言が男性幹部批判のみが強調され、白い目でみられる中、大阪のそして全国の労基法改悪反対の婦人労働者に依拠してあの7000人の日比谷での集会を成功させるため奮闘しました。

7000人の集会なんて失敗したらどうするのか、という中央の男性幹部の危惧を全国の婦人労働者のたたかうエネルギーはこれを実践的に吹き飛ばしました。しかし、これとて自然発生的にたたかが組織されたのではありません。たたかう婦人労働者に依拠した、ものを言う部隊がいてこそ運動を大きく前進させたと私は確信しています。

大阪労連婦人部の結成に参画し、婦人部として基本組織である大阪労連の決定機関である大会や評議委員会に代議員・評議委員として出席できるという婦人部の位置付けや、在り方についても全国では大阪労連だけの組織的運営を実現させることができました。全労働者的課題に女性の視点を反映するという点では、年金要求での55才支給開始年令の要求の全体の要求とする――これも大阪だけの到達点ですが、これまでの大阪における労働組合婦人部活動の到達や婦人労働者の切実な声を階級的労働運動に反映することに全力をあげてきました。また、大阪の婦人運動にも組織された労働者の任務と役割をはたすべく母親運動の任にもあたり第37回日本大会の成功にみなさんとともに奮闘してきました。

ところが、今年、大阪労連婦人部としての大阪母親大会連絡会の私常任委員推薦に当たって、「理由をあきらかにされず」推薦を圧し止められようとしました。また別の場では「新しいレベルで新しい力」をと暗に退任をほのめかされました。さらに、「中居さんがいると若いひとが育たない」「中居さんみたいに10歩さきを進む人は労働運動にはむかない」「婦人部より親組合でやった方がいい」などとささやかれはじめました。

10年も前でしたら、こうした動きをものともせず、婦人組合員に依拠して運動するエネルギーもありましたが、40も半ばを過ぎると、「必要とされないところ」に居座る気もありませんし、活動する場はまだ残されていますし、やりたいこともたくさんあります。

はたらく婦人の大阪集会の件でも、歴史的事実をうやむやにすべきでないとする私の主張は「すこしジャマ」なのかもしれません。

私は発言できる場をかえて引き続く討論に参画していこうと考えました。

日本独特の組織形態として存在している労働組合運動における婦人部組織は世界にお手本がありません。歴史的にも戦後直後の産別会議においても様々であり、総評運動のなかにあっては、右翼的労働組合と反動勢力からの攻撃のもと産業別にも、地域的にも手探りで婦人部活動がとりくまれてきました。 

ローカルセンターの位置と役割を発揮するには体制と運動そして政策の3つの面でのとりくみが重要です。婦人部の場合それに加えて労働組合運動における婦人部の位置付けがこの3つの課題と密接に関連するという状況にあるわけです。しかし、政策面での取り組みが後方に追いやられ、上意下達や上部の方針まち、上部の方針に意見を言えば、文句としかうけとられない風潮など婦人部活動が全面発達しているとはいえないと思います。

大阪労連は今日的到達を今月4〜5日に開催した第9回大会方針で『定着から前進へ』と規定していますが、婦人部はまだその域に達していないのではないでしょうか。

ナイロビ将来戦略の達成にむけ国連は「女性2000年への挑戦」とした世界的キャンペーンをおこなっています。

それには「1990年代は民主化を触媒として、機会を失う悲劇的な時代となるか、それとも女性の地位向上と文明全体にとっての画期的な時代となるのかの、決定的な10年になろうとしている」としています。

わたしは、これは労働組合婦人部にとっても示唆ある指摘だと考えています。私はこれを労働組合運動に引き寄せ「1990年代は階級的ナショナルセンターの確立を契機として、労働組合婦人部が機会を失う悲劇的な時代となるか、それとも女性の地位向上と労働組合運動全体にとって画期的な時代となるのかの決定的10年になろうとしている」とうけとめ、これからも労働組合婦人部運動の前進にむけ部署を変え奮闘するつもりです。

いろんなことをいいましたが、本当にいろんな人に出会い、いろんな事を学びました。いろんな事にもでくわしました。これで「ホッ」としている方もいらしゃるのではないかと思います。

そして、心配してくださる方、これはないと思いますが、気持ち良く付き合って戴いた方、常に励ましていただいた方、共に歩んできた人達、そして何よりも私の活動を支えてくれた仲間のみなさん皆さんにお礼を申し上げ、退任のあいさつとさせていただきます。
 

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